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山猿と笑われた天気読み、皇帝の地理顧問になる 〜記録魔の少女測量官と、地図一枚で戦争を止めるまで〜  作者: 朝霧ナギ


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第20話 白紙の最後の頁に、一滴

 峠の家の炉に、火を入れた。


 母さんが死んだあとの半年、この観察帳は、リサが預かっていた。開くたびに日誌の鉛筆が止まる俺を見かねて、取り上げたのだ。返してもらった日、頁の角が何か所か、前より少し丸くなっている気がしたのを覚えている。


 観察帳を、膝の上に開いた。擦り切れた革の表紙。母さんの、細くて少し右に傾いた字。雲の形。風の向き。川の水位。


 ところどころの余白には、落書きのような小さな絵もある。ある頁の隅には、深い井戸の底に、真上から一筋の光が差し込んでいる絵が描かれていて、その横に「夏至」と、二文字だけ書き添えてあった。何の覚え書きなのか、子供のころからずっとわからないままだ。


 最後の一枚は、やはり白紙だった。母さんはこの頁を書く前に死んだのだと、思っていた。


 リサの壺の封を切った。中には、透き通った、ほとんど水のような液体が入っていた。かすかに、草の青い匂いがした。


 指先に一滴つけて、白紙の頁の真ん中に落とした。


 液体が染み込んだところから、薄い茶色の細い線が浮かび上がってきた。それが炉の火の明かりの中で、ゆっくりと濃くなっていった。線が、つながった。字になった。母さんの字だった。


 俺は壺を傾けて、頁いっぱいに液体を広げた。


 頁の上に、地図が浮かび上がった。


 月の山脈と、その東西に広がる帝国の地図だった。峠。森。砂漠。海岸。帝都。そのあちこちに、小さな丸い印が点々と打たれていた。


 印はどれも、境の神の石の場所だった。峠の、母さんの墓のそばの石。森の、吊り橋のたもとの石。砂漠の、扇状地の縁の石。帝都の、どこかの広場の石。


 頁の下の余白に、色の名前が並んでいた。


 藍。旅の者、一人。


 苔の深緑。旅の者、家族。


 砂漠の赤褐色。急ぎ。追われている。


 霧の海岸の、海藻の紫。伏流に、裏切りの恐れ。


 草描きの染料の色だった。


 扇端の村の、境の神の石を思い出した。裏の、地面に近いところの、赤茶けた筋。砂漠の赤褐色。急ぎ。追われている。


 旅人が祈っていく石なら、誰が足を止めても怪しまれない。草描きの染料なら、誰が持っていても怪しまれない。雨が降れば、数日で消える。雨の来ない砂漠だから、あの筋は残っていたのだ。


 それが、母さんの伏流の、つながり方だった。


 頁の最後に、母さんの字で、一行だけ書き添えてあった。


 ――地図は、人を閉じ込めるためにも、逃がすためにも描ける。どちらを描くかは、描く者が決める。


 俺は長いこと、その一行を見ていた。


 炉の火が、ぱちりと鳴った。



   ◇



 観察帳を閉じようとして、ふと手が止まった。


 頁の綴じ目のあたりに、何か引っかかるものがあった。


 最後から何枚か手前。母さんが死ぬ、前の日の日付の頁。そこだけ、紙がなかった。綴じ目の近くで、ぎざぎざに破り取られていた。


 今まで気づかなかった。母さんが死んだ日の前後の頁は、ずっと開かないようにしてきたからだ。


 前の日の頁を、母さんは何のために破ったのだろう。破ったのは、母さんだったのだろうか。


 答えは、どこにもなかった。


 俺は観察帳を閉じた。


 窓の外で、峠の風が鳴っていた。


 目を閉じると、浮かんでくるものがあった。


 窪地の農園の、定規で引いたような森の列。高原の縁で、膝から崩れ落ちたエルフの少年。あの少年は、逃げられなかった。高原を越える草描きの染料を、一滴も持っていなかったからだ。


 苔の深緑。旅の者、家族。


 もし、あの窪地の近くの境の神の石に、誰かがその色の印を一つ、つけておいてくれたなら。


 俺は立ち上がった。



   ◇



 リサは、また酒場の裏の、酒樽の上に戻っていた。届かない足を、ぶらぶらさせていた。


 星を見上げたまま、俺の足音に振り返りもしなかった。


「読んだかい」

「読んだ」


 俺は、リサの前に立った。


 何を言えばいいのか、まだわからなかった。皇帝を裏切るのか、と聞かれたら、たぶん答えられなかった。王国のためか、と聞かれても、たぶん違うと答えただろう。


 だから俺は、何も言わずにうなずいた。


 リサは、俺を見上げた。


 それから樽の上で膝立ちになって、小さな手をうんと伸ばし、俺の頭を、ぐしゃぐしゃとかき回した。子供のころ、何度もそうされたように。


「……馬鹿だね。母親そっくりの、馬鹿だ」


 リサの声が、少しだけ震えていた。



   ◆ メルカ ◆



 同じ夜。


 ギルドの宿の二階の、いちばん奥の部屋で、メルカはまだ起きていた。


 卓の上には、清書を終えたばかりの野帳が、きちんと揃えて積まれていた。ワジの記録。尾根の高さ。死者二千六百二十四名。最後の数字は、何度も何度も、書き直した跡があった。


 扉が、小さく叩かれた。


 扉を開けると、旅装束の男が一人立っていた。顔は帽子の陰になって、よく見えなかった。男は何も言わずに一通の書状を差し出し、メルカが受け取ると、一礼して暗い廊下の奥へ消えた。足音さえしなかった。


 書状の封蝋には、紋章が押されていなかった。ただ黒い蝋が、平たく垂らされているだけだった。


 メルカは扉を閉めて、封を切った。


 中には、一枚の紙。短い文が、定規で引いたように整った字で書かれていた。


 ――帝国地理院測量局、測量官メルカに命ず。地理顧問アレクの言動を、すべて記録せよ。怪しむべき動きあらば、ただちに報告せよ。本状は、読後、焼却のこと。


 メルカは、その紙を長いこと見つめていた。


 それから、卓の上の野帳を一冊手に取った。頁を、いちばん初めまでさかのぼってめくる。


 峠の宿の頁。気圧計の数字の上に引いた、訂正の一本線。その横に、小さく書き足した字。


 ――案内人の予報、気圧計より四時間早し。日誌から顔も上げずに、空のことを、古い友人の噂話のように話す人。


 宿場の広場で読み上げた頁。読み上げなかった一行が、その下にあった。


 ――ランタン、三度。見落とされなかった。


 稜線の頁。森と砂漠の理由を聞いた日の、長い一行。


 ――同じ数字が、あの人の言葉で、森になり、砂漠になる。もっと、聞いていたい。


 森の村の頁。


 ――案内人の観察帳。地形の描き方、旧地理院の様式に酷似。祖父は峠の案内人とのこと。


 そして、砂漠の手前の野営地で書いた頁。小さな字。


 ――案内人アレク。草描きの使用、確認できず。


 その行の終わりに、自分で書き足した、小さな問いの印。


 言動を、すべて記録せよ。


 記録なら、もうしていた。命じられる前から。命じられたのとは、まるで違う理由で。


 院長に差し出すべき行と、誰にも読ませるつもりのない行が、同じ頁の上に、同じ鉛筆で並んでいた。どちらも、同じ一人のことだった。


 メルカは書状を、蝋燭の炎に近づけた。紙の端が、ちりちりと黒く焦げはじめた。


 そこで、手が止まった。


 しばらくそうしていてから、メルカは焦げかけた書状を、蝋燭から離した。折りたたんで、野帳の、問いの印のある頁に挟み込んだ。


 野帳を閉じて、胸に抱いた。


 窓の外では、峠の風が鳴っていた。その風の向こう、坂の上の峠の家の窓に、まだ小さな炉の火の明かりが、ともっていた。

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