第19話 峠の染料師の、もう一つの顔
峠に戻ったのは、ワジを発って十八日目の夕方だった。
キシェンは、ワジを発ってから、毎日一つずつ冗談を言った。三日目あたりからは、メルカが真顔で返事をするようになった。
鞍部の上に出た時、俺は思わず足を止めた。
西の鞍部の雪庇が、なくなっていた。
留守のあいだに、残っていた分も全部落ちたらしい。その下の谷に、崩れた雪の塊が、灰色の扇の形に広がっていた。
四年前の冬の朝。母さんを呑んだ雪崩も、あそこから起きた。
「……アレクさん?」
後ろで、メルカが心配そうに俺を見ていた。
「なんでもない。春が来たってことだ」
俺はまた歩きはじめた。
宿場町の灯りが見えてきたとたん、ギルドの扉が、蝶番ごと外れそうな勢いで開いた。
「遅いじゃないか、この馬鹿たれども!」
リサが坂を駆け上がってきて、俺の背中をばんばん叩いた。キシェンの背中も、ばん。メルカの背中は、少し手加減して、ばん。それから俺たち三人の顔を順に見上げて、叩いていた手が、止まった。
「……話は、腹に何か入れてからだ。入りな」
山羊の煮込みと、焼きたての平焼きの山だった。峠の湯はぬるいうちに煮え立つから、リサの鍋には、いつも重い蓋が載っている。リサは最後まで何も聞かなかった。ただ俺の椀が空くたびに、黙っておかわりをよそった。
◇
それから十日あまりを、俺は峠で過ごした。
朝は、前のとおりに始めた。最初の一枚の平焼きを、峠の神様の分として岩に置く。目を離したすきに、それは消えていた。留守のあいだ、神様もさぞ腹を空かせていたんだろう。
母さんの墓に、花を供えた。
墓は、峠の東の、森も砂漠も両方見渡せる小さな岩の肩の上にある。そばには境の神の石が立っていて、旅人たちが積んでいった小石が、まわりで小さな山になっていた。
俺も、一つ積んだ。それから、墓に向かって、声に出して話しかけた。四年で、初めてだった。
「母さん。あの庇の上で、一人、引き戻した」
「崩れない、って言ったのは、俺だ」
積んだばかりの小石の上を、風が渡っていった。返事は、なかった。返ってこないのは、わかっていた。
出発の三日前の夜、墓からの帰り道で、俺はギルドの裏手の暗がりに、二つの人影を見た。
一つは、小柄な影。リサだった。
もう一つは、フードを目深にかぶった、背の高い人影だった。旅装束で、顔は見えない。人影はリサに、細く巻いた手紙を手渡した。リサはそれを受け取ると、ひどく険しい顔になった。
フードの人物は、一礼もせずに、峠の坂を帝国の街道のほうへ下りていった。リサは手紙を懐にしまって、裏口に消えた。
俺は声をかけなかった。かけられなかった。リサのあんな顔を、俺は見たことがなかった。
メルカは毎日、ギルドの宿で野帳の清書をしていた。時々手を止めて、窓の外を見ていた。
ある夜更け、宿の厨房を借りて麦粥を炊いていると、背中から声がした。
「夜中に、何をこそこそやってんだい」
寝間着に毛皮を引っかけたリサが、鍋をのぞき込んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「ナツメヤシが少ないね。疲れてる時は、甘ったるいくらいでちょうどいいんだよ」
リサは俺の手から匙を取り上げて、金色の蜜をたっぷり二筋垂らすと、顎で二階を指した。
扉を叩くと、メルカは清書の手を止めて顔を上げた。目の下に、薄く隈ができていた。
「食ってから、書け」
メルカは椀を受け取って、湯気を見つめた。それから、ゆっくり、全部食べた。
空の椀を返しながら、メルカは小さな声で言った。
「……おかわりは、ありますか」
「ある」
メルカが、小さく笑った。ワジを発ってから、初めて見る笑顔だった。
二杯目を取りに階段を下りながら、俺は、自分でも驚くほどほっとしていた。
椀を受け取ったメルカの中指の腹に、清書の鉛筆の黒が、うっすら移っていた。ワジの泥の中で、節が白くなるまで鉛筆を握っていた指だ。
鍋の残りを椀によそいながら、森のうろの横顔を思い出した。滝の音の中で、唇だけで八十まで数えていた。
ワジを発ってから、あの唇は、何も数えていない。
気がつくと、匙が止まっていた。あの唇が、また何かを数えはじめるのを、俺は待っていた。
出発の前の晩、リサが、俺を酒場の裏に呼び出した。
◇
酒場の裏は、峠の風が吹き抜ける狭い石畳の路地だった。
路地の奥に積み上げられた空の酒樽の上に、リサが腰かけていた。手には陶の杯が一つ。足は、地面に届いていなかった。
「座りな」
リサは隣の樽を、顎で示した。
俺が座ると、リサは杯を俺に押しつけた。峠の麦の酒だった。ひと口飲むと、喉が焼けた。
しばらく、リサは何も言わずに、星を見上げていた。
「帝都へ行くんだってね」
「ああ」
「皇帝の、地理顧問様か」
リサは鼻で笑った。声は、笑っていなかった。
「ストラが聞いたら、なんて言うだろうね」
「……リサ」
「アレク」
リサは杯の酒を、一息に飲み干した。それから、俺のほうを向いた。暗い路地で、リサの目だけが、星明かりを映して光っていた。
「あんたに、話しておかなきゃならないことがある。ほんとは、あんたが、もう少し大人になったら話すつもりだった。なのに、いきなり、皇帝の懐に飛び込んじまった」
リサは空の杯を、樽の上に置いた。
「あたしはね、ギルドの染料師だけど、それだけじゃない」
「……」
「クラトン王国の、目だ」
峠の風が、路地を吹き抜けていった。
「山の王国の、諜報員さ。この峠で、帝国の隊商が何を運び、どこの兵がどこへ動くかを見張って、王国に知らせる」
俺は何も言えなかった。
十八年間、毎日のように顔を合わせてきたリサだ。そのリサが。
「驚いたかい」
「……驚いた」
「だろうね」
リサは、片方の頬だけで笑った。
「でも、あんたに話したいのは、あたしのことじゃない。ストラのことだ」
◇
ストラのこと。
王国の目が、母さんの話をする。胸の奥にばらばらに置いてあったものが、勝手に寄り集まりはじめた。
お前の母さんには、借りがある。砂漠の焚き火の向こうで、バトゥは、それしか言わなかった。峠の案内人に、砂漠の隊商長が、何の借りだ。
母さんの観察帳には、峠の空の頁のあいだに、森の夕立の頁も、砂漠の雨の頁もあった。峠の案内人が、そんな遠くまで何をしに行っていたのか。
それから、扇の縁の水。井戸を一つ潰しても、水は地面の下を流れて、思いもしないところで湧いて出る。
焼かれた扇端の村の、境の神の石。その裏に残っていた、赤茶けた筋。あの村に寄るたびに、母さんは、あの石に小石を積んでから発った。
「……バトゥの借りって」
自分の声が、かすれていた。
「母さんが、誰かを逃がしたってことか」
リサが、俺を見た。
一拍、間があった。それから、細く息を吐いた。
「……先に言われちまったね」
リサは樽の上で、膝を抱えた。小柄なリサがそうすると、いっそう小さく見えた。
「そうだよ。あのとかげ親父の姪っ子を、ストラが逃がしたのさ。帝国に見つかった、人間との混血の娘をね。帝国は、混血を逃がさない。二つの気候に耐えられる混血は、どこへでも逃げられるからね。見つかれば、役人にされるか、帝都の奥に連れていかれて、一生、閉じ込められる。血を、取られ続ける」
「ストラは、それを知ってた。だから、逃がした。峠から山を越えさせて、王国へ。何年も。何十人もね」
「一人で、か」
「一人じゃ、できやしない。砂漠の隊商にも、帝都の文書庫の色眼鏡の爺さんにも、ストラがつないだ仲間がいる」
リサは染料に染まった指先で、樽の板を、とん、と叩いた。
「あたしは、それを王国につなぐ役だった。ストラは、仲間うちで、伏流って呼んでた」
伏流。
「あんたなら、わかるだろ」
わかる。いま、自分でそこまで辿り着いたばかりだった。
「王国は逃げてきた者を受け入れて、そのかわり、伏流の拾った噂が王国に流れる。ストラは、それでいいと言った。ただ、逃がしたいだけだってね」
「……」
峠の西を下った日に見た、鉄を積んだ荷車の列を思い出して、聞いた。
「王国の外にも、ドワーフはいるだろ。帝国側の山麓の、ピエモンテの鉱山の連中は」
樽の縁にかけていたリサの手が、止まった。藍と、赤褐色と、深緑に染まった指先。その指が、樽の縁をほんの一瞬だけ、強く握った。
「……あいつらは、伏流とは関係ない」
それだけ言って、リサは話を戻した。
「ストラが死んで、四年。伏流は、どうにか、あたしが守ってきた。でも、あたしは、峠の染料師だ。帝都の奥には、手が届かない」
リサは、俺の目をまっすぐに見た。
「アレク。あんたは、帝国の中に入る。皇帝の、すぐ隣にね。……王国の、目になってほしい」
◇
答えられなかった。
王国の目。皇帝の地理顧問になって、その皇帝を、裏から見張る。
泥の中で若い兵の目を閉じてやっていた、皇帝の手が目に浮かんだ。
「……すぐには、答えられない」
「だろうね」
リサはうなずいた。それから懐から、小さな陶の壺を取り出した。蓋に、蝋で封がしてある。
「今夜、家に帰ったら、母さんの観察帳の、いちばん最後の頁を開いてみな」
「最後の頁は、白紙だ。何度も見た」
「白紙じゃないよ」
リサは壺を、俺の手に押しつけた。
「その頁に、この染料を、一滴だけ垂らしな。ストラとあたしで作った、染料師の手品さ。それで、あんたの母さんが、何を遺したのか、わかる」
リサは樽から、ひょいと飛び降りた。
「答えは、それからでいい」
路地の出口で、リサは一度だけ振り返った。
「アレク。さっき、先に言い当てた時の顔。あれは、ストラだったよ。……いやになるくらいね」




