第18話 『余は、お前を、余の地理顧問とする』
古い地図だった。月の山脈の、北の一部だろうか。峰と谷と尾根が描かれている。
その描き方を見て、俺は息を止めた。
等高線の一本一本に、斜面を下る向きへ、細い短い線が、髭のようにびっしりと添えられていた。急な斜面ほど、線は濃く、詰まっている。ゆるやかな斜面ほど、薄く、まばらになる。紙の上の平らな線の重なりが、手で触れられそうなほど立体的に、山の形を浮かび上がらせていた。
祖父さんの描き方だった。峠の家の土間で、木の枝を使って、土の上に描いて見せてくれた描き方。母さんが観察帳の素描に使っていた描き方。
「……見たことは、ありません。でも、この描き方は、知っています。祖父に、習いました」
「祖父の名は」
「リッター、です。峠で、案内人をしていました」
皇帝の灰色の目が、地図から俺の顔へ移って、また地図へ戻った。
天幕の外で、誰かが仲間の名を呼ぶ声がした。吹き込んだ乾いた風に、古い地図の端がかすかにめくれた。皇帝はその端を指で押さえて、地図を丁寧に折りたたんだ。裏の隅に、小さな書き込みが見えた。読む前に、皇帝の親指がその上に載った。親指は、地図が外套の懐に収まるまで、そこから動かなかった。
「そうか」
祖父の話は、それで終わった。
「アレク。一つ聞く。月の山脈を削れば、砂漠に雨が降るか」
天幕の中が、しんとした。コスマスが、わずかに顔を上げた。メルカの肩が、小さく動いた。山脈の正確な高さと形を知るための、帝国の、ある大きな計画。峠の宿で、メルカが言っていた言葉が、頭をよぎった。
少し考えてから、答えた。
「わかりません」
「わからぬ、か」
「でも、山は、そんなに単純じゃありません。山は雨を止めているだけじゃない。雨を集めて、川を生んで、森も、砂漠も、両方作っています。片方だけを変えることは、たぶん、できない」
皇帝は、ほんのわずかに口の端を上げた。
「地理院の学者たちは、降る、と言った」
皇帝は、口を閉じて、俺の顔をまっすぐに見た。
「アレク。余は、お前を、余の地理顧問とする」
天幕の中が、どよめいた。地理顧問。峠の案内人が。地理院の学者でもない、どこの馬の骨とも知れない若造が。囁きが、さざ波のように走った。
皇帝は、囁きが静まるのを待たなかった。灰色の目が、コスマスの胸の銀の徽章を、かすめた。
「地理院の地図は、地理院の者が検める。参謀本部は、その地図を疑わぬ。余の卓の脇には、どちらにも借りのない目が、一つ要る」
褒美を授ける声ではなかった。卓の上の駒を、一つ置き直す声だった。
「陛下、俺は――」
言いかけて、言葉が続かなかった。
峠の暮らしが、目に浮かんだ。毎朝の空。岩の上の平焼き。リサの雷みたいな声。母さんの観察帳。
峠の者の読みは、帝国の地図に勝てる。それを、帝国に認めさせる。峠の宿場で、俺は鼻の穴をふくらませて、そう言った。
帝国に認めさせたかった。でも、こんな形でじゃなかった。泥の中の二千六百と引き換えに差し出される「認める」なんて、俺の欲しかったものじゃない。今ここでうなずけば、あの兵たちの上に立つことになる。そう思うと、喉の奥が苦くなった。
それでも、目に浮かぶものは、ほかにもあった。窪地の、まっすぐな森の列。高原の縁で倒れた少年の背中の、赤い線。今朝の、泥から突き出した腕。
正しい地図が皇帝の隣にあれば。正しく空を読む者が、皇帝の耳の届くところにいれば。昨夜のようなことは、少しは減るのかもしれない。
「……謹んで、お受けします」
皇帝はうなずいた。
「では、顧問。最初の仕事だ。死んだ者を葬ってから、北へ引く。今日、また水は来るか」
俺は天幕の入口まで歩いて、東の空を見た。
月の山脈の上は、青かった。稜線に、綿くずのような小さな雲が二つ三つ浮いているだけだ。昨日は、昼を過ぎるころには、もう塔の根が膨らみはじめていた。ゆうべの大雨で、山の斜面はまだ濡れて、冷えている。冷えた斜面からは、空気は駆け上がらない。
「今日は、来ません。山の上に、塔は立たない。明日の昼から先は、わかりません。葬るなら、今日のうちに、崖の上へ」
皇帝は、将校たちを振り返った。
「聞いたな。今日のうちに、崖の上だ」
それから、皇帝の目がメルカに移った。
「測量局のメルカ。お前は、この者の補佐として、帝都へ同行せよ。この者が読み、お前が測る。昨夜、余が見たかったのは、それだ」
メルカは一瞬、言葉を失って、それから深く頭を下げた。
「……拝命、いたします」
春の雨が終わるまでに、帝都へ来い。峠の始末をつけてからでいい。皇帝はそう言って、軍馬を三頭、俺たちに与えた。
将校たちが天幕を出ていく。コスマスも、頭を上げて出ていった。俺の横を通り過ぎる時、俺を見た。それだけだった。
◇
その日の午後、俺たちは陣を発った。
北の崖の上には、白い布にくるまれた遺体が、何列にも並べられていた。その脇で、土色の上着の兵たちが、硬い地面につるはしを振るっていた。
「墓を掘るのも、工兵の仕事だ」
ウィンパーが、つるはしを止めずに言った。隣でダルシーが、土を掻き出していた。その手のひらにも、布が巻いてあった。
「借りは、これで、二つ目だ」
「リサの鍋の分も、まだだぞ」
「帳面につけておいてくれ」
ウィンパーは、少しだけ笑った。声には、ならなかった。
ダルシーが、顔を上げた。
「あの五人、みんな、生きてる。……猿の言うことを、聞いたからだ」
ダルシーは、また土を掻き出した。
三頭の軍馬で、崖の上を北へ進んだ。バトゥのラクダは、崖の上のリザードマンの兵たちに預けてきた。白い布の列は、歩いても歩いても、終わらなかった。
陣を発ってから、メルカは、野帳を開かなかった。
俺は、何度も東を見た。日が傾いても、月の山脈の上に、塔は一本も立たなかった。
空を読んで、皇帝の軍を動かした。最初の一度は、死んだ者を葬るためだった。
キシェンが、俺の横に馬を並べた。
「なあ、アレク。地理顧問って、給金、いくらだと思う? 帝都の、三角州の魚はうまいらしいぞ。朝は魚の粥。昼は焼き魚。晩は煮魚。夜食に、もう一回焼き魚。勘定は顧問様持ちで、味見は俺が引き受けてやる。それに、帝都の女の子は、峠の女の子より、ずっと――」
キシェンは、そこで言葉を切った。俺の顔を、見たのだと思う。
いつもなら、ここで俺が頭をはたいて、笑い飛ばすところだった。キシェンも、たぶん、それを待っていた。
俺は、笑おうとした。
笑えなかった。喉の奥に、今朝の泥の臭いが、まだこびりついていた。
キシェンは、俺の肩を軽く叩いた。
「……まあ、魚は逃げないからな」
そう言って、少し後ろに馬を下げた。その一言が、なぜだか、妙にありがたかった。
その晩、崖の上の野営で、日誌を開いた。
千五百二十三日目。
――快晴。山の上に、塔は立たず。
――南のワジ。死者、二千六百を下らず。
鉛筆が、そこで止まった。
東を見た。月の山脈の稜線が、星空の下に黒く沈んでいた。夜の空で読み直しても、明日、塔は立たない。それだけは、読めた。
読めるだけでは、足りない。
もう一行、書き足した。
――次は、剣が抜かれる前に、地図の上で止める。




