第17話 泥の中で、荷車を持ち上げた男
日が、山脈の上にすっかり昇りきった。
ワジの底は、泥の海だった。茶色い泥が川床いっぱいに膝の高さまで積もって、表面はもう朝の日差しに焼かれ、ひび割れはじめていた。
崖の上から見下ろした時には、泥の上の黒っぽい塊にしか見えなかった。崖を下りて、泥に足を踏み入れて初めて、それが一つ一つ人の形をしていることがわかった。
泥から、片腕だけが突き出していた。指が、何かをつかもうとするように曲がったまま固まっていた。
生き残った兵たちが、仲間の名を呼びながら、泥を手で掘っていた。
泥の臭いが、喉の奥まで入ってきた。メルカに巻いてもらった頭の布の端を引き下ろして、口と鼻を覆った。ずれた布の下から、前髪の一房の若白髪がこぼれて、目の前で揺れた。押し込む気にもなれなかった。
「アレクさん。……数えて、いいですか」
メルカの手に、野帳と鉛筆があった。
鉛筆を握る指の節が、白かった。
俺はうなずいた。メルカは泥の中を、一体ずつ数えて歩いた。鉛筆の先が、何度も紙を破った。そのたびに、新しい頁に同じ数を書き直した。
◇
下流の、ワジがもう一度ゆるく曲がるあたりで、俺は足を止めた。
曲がりの内側に、家ほどもある岩が一つ、川床から突き出していた。その下手に、流木と天幕の布と、ひっくり返った荷車が、山になって積み重なっている。
水は、曲がりの外側を走る。内側の、大岩の陰では、流れが渦を巻いて、ゆるむ。ゆるんだところに、流れてきたものが置いていかれる。流木も、布も。
人も。
「キシェン。あの山だ」
「……何も、動いてねえぞ」
「荷車の下に、隙間がある。あそこだけは、水が渦を巻いてただけで、叩きつけてない。息のできる場所が、残ってたかもしれない」
キシェンは、もう走っていた。近くで泥をかいていた兵たちが、何人かついてきた。流木をどけ、布を剥がし、荷車の縁に手をかけた。重い。泥を吸った木は、岩みたいだった。
横から、もう一本、手が伸びてきた。
くすんだ紺の外套の袖だった。裾から腰まで、泥にまみれている。背の高い、五十ほどの男だった。兜はかぶっていない。短く刈り込んだ髪が、朝の光の中で銀色に光っていた。
「上げるぞ」
低い声だった。荷車が、軋みながら傾いた。
その下の、泥と板の隙間に、若い兵が一人、横向きに挟まっていた。顔の半分が泥に埋まっている。キシェンがその泥を指でかき出すと、唇が、かすかに動いた。
息を、していた。
兵たちが、声にならない声を上げて、若い兵を引きずり出した。
男は、荷車から手を離した。泥をかいていた兵の一人が、その横顔を見て、血の気を失った。泥の中に両膝をつき、額をこすりつけた。それを見た兵たちが、次々にひざまずいた。
男は、片手を上げて制した。
「立て。今は、仲間を探せ」
大きな声ではなかったのに、泥の上を渡って、ワジの端まで届いた。
メルカが、俺の袖を強くつかんだ。
「……皇帝陛下です」
夜明けに、天幕の前に立っていた、あの背の高い影だった。
皇帝プトレマイオスは、そのまま泥の中を歩いていった。遺体の一つ一つの前で足を止め、かがみ込んで、開いたままの目を、手のひらでそっと閉じてやる。俺と同じくらいの歳の兵の前では、泥まみれの頬を外套の袖で拭い、握りしめられていた小さな木彫りの鳥を、指からそっとほどいた。しばらく手のひらの上で眺めてから、兵の胸の上に置き直した。同じことを、何度も、何度も。
離れたところで、衛兵たちが、止めることもついていくこともできずに立ち尽くしていた。
◇
やがて、皇帝が俺たちの前に戻ってきた。メルカがひざまずき、キシェンと俺もそれにならった。
「顔を上げよ」
間近で見ると、ひどく疲れた顔だった。目の下に、濃い影があった。灰色の目が、俺の剥けた手のひらと、血で黒くなった布に落ちた。
「大岩の陰に、息のできる隙間が残ると読んだのも、お前だそうだな」
俺は、うなずいた。皇帝の外套の袖口には、荷車の縁の泥が、まだ乾かずに残っていた。
「第三隊の隊長と、工兵の隊長から、話は聞いた。……峠で百人を連れ戻した案内人だとも、聞いた」
皇帝は、俺たち三人を順に見た。
「昨日の夕刻、山の雲を見て、今夜ワジに水が来ると言った案内人がいた。尾根の高さを測り直し、来る水の深さと時刻を、数字で示した測量官がいた。二人の言葉を聞いて、四百の兵が、崖の上へ移った」
灰色の目が、メルカの泥で汚れた制服に止まった。
「お前が、測量官か。計算は、当たっていたか」
メルカの肩が震えた。
「……当たって、いました」
「名は」
俺に向けた問いだった。
「アレク。コル峠の、案内人です」
「アレク」
皇帝は、俺の名を確かめるように繰り返した。
「余の天幕へ来い。昼までにだ。その測量官も連れてこい」
◇
皇帝の天幕は、外から見るよりずっと質素だった。中央の卓に、何枚もの地図が重ねて広げられている。
居並ぶ将校の端に、コスマスがいた。軍服は皺ひとつなく着替えられ、銀の徽章がまた光っていた。顔だけが、紙のように白かった。俺たちが入っていくと、その目がこちらを向いて、すぐに卓の上へ戻った。
入口の脇で、伝令の若い兵が、皇帝に一通の書状を差し出していた。外套の留め具は金で、細い縦の線を一本、円で囲んだ形をしていた。帝都を通る、世界の基準の経線を象ったものだと、メルカが小声で教えてくれた。
「皇女殿下からの書状にございます」
皇帝は封を確かめただけで、それを卓の端に置いた。
「死者は」
「……まだ、数え終わっておりません。ですが、二千六百を下ることは、ないかと」
天幕の中が、静まり返った。
「二千六百」
皇帝は、その数をゆっくりと繰り返した。
「反乱軍とは、一度も剣を交えていない。連中は、砂丘の上から見ていただけだ。それで、二千六百だ」
卓の上の地理院の地図で、尾根の線は、昨日と同じ場所に、同じ高さで引かれていた。
「コスマス。この地図を描いた者に、余から書状を送る。尾根を一つ、測り直すようにと」
「陛下、地理院の地図は、クリスタ院長が――」
「地図は、紙だ」
皇帝の声は、静かだった。
「二千六百の兵は、紙ではない」
皇帝は、地図から目を上げなかった。
「『案内人の勘で、八千の陣は動かさない』。昨日、この地図の上で、そう言った者がいたそうだな」
コスマスの顔から、色が消えた。
「勘で動いた四百は、生きている」
コスマスは、深く頭を下げた。下げたまま、上げなかった。その首筋が、細かく震えていた。
「遠征は、ここまでとする。死んだ者を葬り、名を記してから、北へ引く。この砂漠で、これ以上一人も死なせるな」
将校たちが、いっせいに頭を下げた。
それから皇帝は、地理院の地図の下から、もう一枚、別の地図を引き出した。羊皮紙の端が茶色く変色して、何度も折りたたまれた跡が、白い筋になって残っていた。
「アレク」
皇帝が、俺を呼んだ。
「この地図を、見たことがあるか」




