第16話 『引いたんじゃない』
「アレク!」
キシェンが、荷物から長い綱を引きずり出していた。山で使う綱だ。三十メートルはある。端を崖の縁の大岩に二重に巻きつけ、結び目に体重をかけて一度ぐいと引いて、残りを俺に放ってよこした。
「下ろせ。つかんだ奴から引き上げる」
綱は濁流の上に落ちて、すぐに下流へ引っ張られた。何本もの手が伸びてきた。泥だらけの手。血だらけの手。一本が、つかんだ。
「引け!」
俺とキシェンと、第三隊の兵が二人。それに、土色の上着の工兵が一人、黙って後ろに取りついた。重い。水の力が、綱の向こうの男を下流へ、下流へと引っ張っていく。手のひらの皮が、焼けるように熱くなった。
上がってきたのは、俺より年下かもしれない兵だった。泥を吐いて、地面に爪を立てて震えていた。
「次!」
今度は二人が、同時に綱をつかんだ。
上がらない。二人分の重さと水の力が、俺たちを崖の縁へ引きずっていく。岩に巻いた綱が、ぎしり、と嫌な音を立てた。
下の男が、上の男の足にしがみついた。上の男が足を蹴った。一度。二度。下の男の顔に、踵がめり込んだ。手が離れた。
濁流の中に、白い顔が一瞬だけ見えた。それから、見えなくなった。
綱が軽くなった。
引き上げた男は、地面に額をこすりつけて、獣のような声で泣いた。
俺は、また綱を投げた。
◇
十人目までは数えていた。そのあとは、やめた。手のひらの皮はとうに剥けて、綱が血で滑った。キシェンが自分の外套を裂いて、俺の手に巻きつけた。
メルカは崖の縁でランタンを掲げて、光の届くところで手を伸ばしている者を見つけては、叫んでいた。右です。その岩の陰。流木につかまっている人が、二人。声は、とうにかすれていた。ランタンを持つ腕の震えを、もう片方の手で手首を押さえて止めていた。一度だけ、光が濁流ではなく、俺の手もとの、血で黒く濡れた布を照らした。声が、途切れた。それから光は、また濁流の上に戻った。
南の崖の上でも、松明が揺れていた。リザードマンの補助兵たちだった。夜の寒さで鈍った体で、長い尾を岩に巻きつけ、崖の下へ、槍の柄を、天幕の布を裂いて繋いだ紐を差し伸べていた。自分たちの砂漠を奪った帝国の兵を、引き上げていた。
ウィンパーの綱は、まだ動かなかった。
◇
轟音が、ふっと低くなった。
崖の肌を洗っていた水が、手のひら一枚ぶん、下がった。どこかで誰かが、引いたぞ、と叫んだ。安堵の声が、さざ波のように広がりかけた。
俺は、上流の曲がり角を見た。
水の面が、静かすぎた。流れてくる流木が、急に減っている。その向こうの闇で、何かが、低く、きしむような音を立てていた。
「引いたんじゃない」
雪解けの谷で、何度も見た。倒れた木と岩が流れをせき止めて、いっとき川が細る。せきが切れた時に来る水は、最初の水より高い。
「上で、流木が詰まってる。詰まりが切れたら、もっと高いのが来る。今のうちに、上げられるだけ上げろ!」
「右下です!」
メルカのランタンが、雨裂の溝の下を照らした。
崩れた斜面の裾に、泥の中から這い上がってきた人影が、ひとかたまりになっていた。四つ、五つ。その一番下で、ひょろ長い影が、仲間の尻を押し上げていた。
「ダルシー!」
ウィンパーの喉から、聞いたことのない声が出た。
綱が、ぴんと張った。ウィンパーが、誰よりも深く腰を落とした。俺とキシェンも、自分たちの綱を工兵に預けて、その後ろに取りついた。
「一人ずつだ! 腰に巻け!」
一人。二人。三人。四人。五人。
最後に、ダルシーが綱をつかんだ。
上流の闇で、何かが、折れる音がした。
水が、来た。最初の壁よりひと回り高い水が、詰まっていた流木を丸ごと押し流して曲がり角を回り、白い泡で崖の肌を駆け上がり、ダルシーの腰を、胸を呑んで、綱をダルシーごと下流へ引きずり、岩に巻いた結び目に悲鳴を上げさせた。
ウィンパーが、崖の縁から半身を乗り出した。泥の中へ腕を突っ込んで、ダルシーの襟首をつかんだ。
そして、引き戻した。
崖の上に転がったダルシーは、泥を吐いて、咳き込んで、それから言った。
「……五人、連れてきた」
息を吸った。
「……六人、いたんだ」
ウィンパーは、ダルシーの頭に大きな手を載せた。押さえはしなかった。載せたまま、動かさなかった。
キシェンは、もう次の綱をたぐっていた。
「次、投げるぞ」
◇
水が引きはじめたのは、東の空が白みはじめたころだった。
ワジの底は、もうワジの底ではなかった。天幕は一つも残っていなかった。どろりとした茶色の泥の上に、流木と岩と引き裂かれた布と、それから、人の形をしたものが、あちこちに転がっていた。崖の肌には、泥と布切れが、きのう見上げた枯れ枝の線より、少しだけ高いところまで貼りついていた。
南の砂丘の稜線に、ラクダに乗った影が一列に並んで、こちらを見下ろしていた。砂漠の反乱の、部族の戦士たちだった。崖の上の兵の剣は、泥の下だった。影はしばらく動かず、やがて一騎ずつ、稜線の向こうへ消えていった。
攻めてくる必要など、なかったのだ。帝国の軍は、剣を一度も抜かないまま、負けた。負かしたのは、山の向こうに降った、たった一晩の雨だった。
少し離れた台地の上に、コスマスが立っていた。撫でつけていた髪が乱れ、両手で羊皮紙の筒を握りしめていた。そのさらに奥、金の網目の旗に囲まれた天幕の前に、背の高い影が一つ、泥に埋まったワジを見下ろしていた。遠すぎて、顔は見えなかった。
メルカは、崖の縁に座り込んでいた。消えたランタンを、握ったままだった。
「当たりました。水の深さも。来た時刻も」
鉛筆の音のような、小さな声だった。
「正しい数字を出しても、四百人しか、動かなかった。私が、もっとうまく説明できていたら」
涙が、泥の頬に白い筋を引いた。
「正しい数字が、何も、救ってくれない」
ランタンを握ったままの手に、皮の剥けた手を重ねた。
涸れ川は、また眠りにつこうとしていた。底に、数えきれない人を抱え込んだまま。




