第15話 『上がれ!』
夜半を、とうに過ぎていた。
月は、もう西の砂の向こうに沈んでいた。星は降るようだった。天の川が、東の山脈の上から西の砂の海の果てまで、白い帯になって流れている。風はない。砂漠の夜の冷たさが、毛布の上から骨にしみてくる。
ワジの底の焚き火は、ほとんどが燠になっていた。見張りの松明だけが、川床のあちこちでぽつり、ぽつりと揺れている。千を超える天幕は、星明かりの中で、白い墓石みたいに静かに並んでいた。
メルカは俺の隣で、膝を抱えたままうとうとしていた。キシェンは岩に背をもたせて、目を閉じている。少し先の雨裂の溝の上では、ウィンパーが腕を組んで立っていた。眠っていないのは、たぶん俺とあの男だけだった。
東の山の上の稲妻は、いつの間にか見えなくなっていた。
雨が上がったのだろうか。
それとも。
最初に来たのは、匂いだった。
風のないはずの夜に、上流のほうから、ふっと冷たい空気が流れてきた。湿っていた。雨に打たれた土の匂い。濡れた石の匂い。この乾いた砂漠の、どこにもあるはずのない、あの匂いだった。
上流の山で雨に冷やされた重い空気が、涸れ川の底を伝って、水より先に流れ下ってきたのだ。
俺は立ち上がった。
「キシェン」
キシェンは、もう目を開けていた。
「隊長。角笛の支度を」
ウィンパーは、何も聞き返さなかった。
次に来たのは、足の裏だった。地面が、かすかに震えていた。遠くを荷車の列が通る時のような、低く細かい震え。それが、少しずつ強くなっていく。
そして、音が来た。
ごう、と。
遠くで何か巨大なものが、喉の奥で唸っているような音。雷とは違う。雷は一度鳴って、消える。この音は消えない。途切れずに続いて、一息ごとに近づいてくる。
「……来た」
メルカが跳ね起きた。毛布が、肩から滑り落ちた。
◇
「起きろ!」
老隊長の声が、崖の上に響き渡った。年寄りとは思えない、腹の底からの声だった。
「ワジの底の連中を起こせ! 角笛を吹け!」
「工兵! 下へ叫べ! 喉が裂けてもかまわん!」
ウィンパーの声が、それに重なった。
角笛が鳴った。一本、二本、三本。低く長く、切羽詰まった音が、星空に吸い込まれていく。崖の上の兵たちが、口々に叫んだ。水だ、水が来る、崖を上がれ。メルカが、震える手でランタンに火を入れた。
ワジの底で、天幕のいくつかがぼんやりと明るくなった。寝ぼけた声が、のんびりと返ってきた。夜中に角笛など吹きやがって。崖の上の臆病者どもが、また。
ワジはゆるやかに曲がりながら、山のほうへ続いている。曲がり角の向こうに何が来ているのか、川床からは見えないのだ。
ダルシーが、雨裂の溝の縁に立っていた。崖の下の、夕方見ていたあの一角を、じっと見下ろしている。
「隊長。……あいつら、起きてねえ」
「ダルシー」
「猿の言うことは、聞いとけ」
ダルシーは、笑おうとした。うまく笑えていなかった。
「俺は、そう言われても、聞かなかった。あいつらも、俺が叩き起こさなきゃ、聞かねえ」
ウィンパーの手が、ダルシーの腕をつかんだ。
一瞬だけだった。手は、離れた。
ウィンパーは肩の綱をほどき、端を溝の上の岩に二重に巻きつけて、残りを溝の闇へ投げ下ろした。
「これを目当てに、戻ってこい。俺は、ここで握ってる」
ダルシーはうなずいて、溝の中へ滑り下りていった。そばかすの顔が、闇に呑まれた。
◇
見えたのは、崖の上の俺たちだけだった。
上流の、曲がり角の、星明かりの中。
白い線が見えた。
川床の幅いっぱいに、横一文字に引かれた白い線が、こちらへ動いていた。近づくにつれて線は線でなくなり、盛り上がり、泡立ち、うねり、崖から崖までをひと息に埋めて、なおも膨れ上がりながら迫ってきた。
壁だった。
根こそぎにされた灌木を、岩を、砂を、流木を、何もかもを抱え込んで、ごろごろと転がし、噛み砕き、吐き出してはまた呑み込みながら、泥と石の黒い壁が押し寄せてくる。頂だけが星明かりを受けて白く泡立ち、その高さは、人の背丈ほどもあった。
「上がれ!」
喉が裂けるほど、叫んでいた。
「崖を上がれ! 今すぐだ!」
ワジの底の兵たちが、ようやく上流を振り返った。
悲鳴が上がった。
水は、まっすぐには来ない。曲がりの外側へ寄って、崖にぶつかり、そこで高く跳ね上がる。曲がりの外側は、この北の崖の、上手のほうだ。
「上手の溝は、だめだ! 下手へ走れ! 下手の、崩れた斜面から上がれ!」
崖の上の兵たちが、俺の声をそのまま下へ叫び継いだ。川床の松明のいくつかが、向きを変えて、下手へ流れはじめた。
崖の下の、ダルシーの下りていったあたりで、松明が一本、天幕から天幕へ跳ねるように走っていた。天幕の布を引きはがし、寝ている者を蹴り起こしているのが、星明かりでもわかった。ひょろ長い影だった。影は、上手へ走りかけた何人かの腕をつかんで、下手へ引っぱっていった。俺の声を、聞いていたのだ。
松明は、すぐに崖の陰に入って、見えなくなった。
人の背丈の三倍の崖は、昼間に見た時には、なんでもない高さだった。夜の闇の中で、寝起きの体で、迫る地鳴りの中で、それは城壁だった。兵たちは、雨裂の溝と崩れた斜面に殺到した。押し合い、つかみ合い、互いの肩を踏み台にして這い上がろうとした。上から落ちた者が、下の者を巻き込んで、また落ちた。
水の壁が、曲がりの外側の崖にぶつかった。白い泡が崖の肌を駆け上がって、上手の溝に取りついていた兵たちの上に、泥の滝になって落ちた。下手の斜面では、人の列が、まだ崖を這い上がっていた。
壁が、最初の天幕の列に届いた。
布の裂ける音。杭の抜ける音。支柱の折れる乾いた音。それが一瞬で、轟音に呑まれた。白い天幕が何十も、紙の舟みたいに泥の中へ沈んでいった。
天幕の中には、まだ人がいた。
馬が叫んでいた。人間の悲鳴より、ずっと高い声で。綱で繋がれたまま、泥の中で首を振り立てていた。一頭が足をすくわれて横倒しになり、白い腹が星明かりに浮かんで、流木と一緒にごろりと回って、見えなくなった。
崖の下の窪みに、二十人ほどが身を寄せ合っていた。濁流は、窪みの入口で渦を巻いて、一気に中へなだれ込んだ。
ウィンパーの綱は、溝の闇の中へ垂れたまま、動かなかった。ウィンパーは両手でそれを握って、身じろぎもしなかった。
一人の兵が、崖の途中のタマリスクの根にしがみついていた。水は腰まで来ていた。兵は、もう片方の手で崖の岩をつかもうとした。指が岩の上を滑った。爪が剥がれて、黒い筋が岩肌に残った。濁流に運ばれてきた岩が、兵の背中にぶつかった。兵の手が、根から離れた。
声も上げなかった。
泥の中に、すうっと消えた。




