第14話 十時間後の水
コスマスは、俺の話を最後まで聞きさえしなかった。
「鉄砲水」
羽根ペンを回す指が、止まった。
「この砂漠で、雨の季節も始まらないうちに、晴天の下で、か」
「山の上は、晴天じゃない」
「山の雨は、山に降る」
ペンの先が、卓の上の地図を軽く叩いた。
「地理院が十年かけて測り上げた、エルグ南部の地図だ。このワジに注ぐ谷は、この一本だけだ。あの雲のかかっている南東の谷は、山脈から西へ張り出したこの尾根の、向こう側。降った雨は、南の別のワジへ流れる」
「その尾根は――」
「地理院長クリスタ様の地図に、間違いはない。案内人。これは、勘の話ではなく、測量の話だ」
「参謀長閣下」
隣で、メルカが言った。小さく、まっすぐな声だった。
「その尾根について、申し上げたいことがあります」
メルカは、野帳を卓の上に開いた。
「南へ進んだこの十日間、この尾根を、麓の何か所かから、横から測りました。地図では、尾根は西の端まで二千メートルを超えて続いています。でも、ここで――」
細い指が、地図の一点を押さえた。
「千二百メートルほどの、低い鞍部まで下がっています。尾根は、ここで切れている。南東の谷は、その切れ目から北へ抜けて、このワジへ流れ込みます。このワジの流域は、地図の、およそ三倍あります」
天幕の中が、静かになった。
メルカの鉛筆が、新しい頁の上を走った。流域の広さ。雨の量。砂漠の岩の斜面は、雨をほとんど吸わない。ワジの幅は、三百メートル。
「あの雲の下で、案内人の言う滝のような雨が、あと二時間降り続いたとします。そうなれば、ここに来る水の深さは、少なくとも一メートル半。大人の、胸の高さです。それが、何時間も続きます」
「……来るとすれば、いつだ」
コスマスの声は冷ややかなままだったが、ペンはもう回っていなかった。
「あの雲の下から、ワジに沿って五十キロ。水の先頭は、人が早足で歩くくらいの速さで下ってくる。雨は、日暮れまでやまない。だから――」
「夜半から、明け方にかけて」
メルカが、俺の言葉を引き取った。野帳の端に、五十キロを早足の速さで割った数字があった。十時間。
コスマスは、野帳を見下ろした。それから、指先で、すっと押し返した。
「見事な計算だ。前提が正しければ、の話だが。麓から、ひとりで、遠くの尾根を横から測った数字と、地理院が十年かけて何十人もの測量官で積み上げた数字。陛下に、どちらを信じよと申し上げればいい」
メルカの唇が、白くなった。
「それに、反乱軍がどこから見ているかもしれない砂漠で、日暮れに八千の兵を崖へ上げろと言うのか。崖の上には井戸もなければ、馬に食わせる草もない。上がる道は、雨裂の溝が数本きりだ。夜の溝に八千が詰まって列を崩したところを、砂丘の向こうから突かれたら、水が来る前に陣が終わる」
筋は、通っていた。水が来なければ、闇の崖で列を崩した八千は、ただの的だ。
コスマスは、押し返した野帳には、もう目もくれなかった。
「案内人の勘で、八千の陣は動かさない」
コスマスは声も立てずに笑って、羽根ペンを卓の地図の上に置いた。ペン先は、ちょうど、あの尾根の線の上にあった。
◇
天幕を出ると、西の空が燃えるように赤かった。南東の稜線の上では、黒い雲の塔が、上のほうだけ薔薇色に光っていた。ワジの底からは、夕餉の鍋を囲む笑い声が、崖に反響して上がってくる。
メルカは野帳を胸に抱いたまま、立ち尽くしていた。
「……院長の地図を、本気で疑ったことは、ありませんでした」
「地図は、正しいさ。たいていはな。でも、描くのは人間だ。全部の尾根を、横から測れるわけじゃない。お前は測った。お前の数字のほうが、新しい」
隣の御座所の前には、金の網目の旗が四方に立っていた。
メルカが、そちらへ一歩踏み出した。俺も並んだ。
入口の前で、槍が二本、音もなく交差した。
「陛下は、日の沈みきるまで、祈りの時間だ。そのあとは、参謀長閣下と夕餉を召される」
衛兵の目は、メルカの差し出した通行証の上を滑って、すぐに戻ってきた。
「測量局の通行証で通れるのは、陣の中までだ。測量官が、陛下に直に申し上げる決まりはない。参謀長閣下を通せ」
「その参謀長閣下が――」
「参謀長閣下を通せ」
同じ言葉が、同じ高さで返ってきた。槍の向こうの垂れ布は、そよとも動かなかった。衛兵は、俺のほうを一度も見なかった。案内人は、数のうちに入っていない。
メルカの指が、野帳の角を白くなるほど握っていた。
正面の道は、塞がれた。
なら、脇から行く。
陣の西の端、雨裂の溝の上に、土色の天幕が固まっていた。
ウィンパーは、その天幕の前で、工兵たちの水の樽を数えていた。俺の話を、今度は最後まで聞いた。崖の途中の枯れ枝の線を見た。川床の、石の粗い筋を見た。筋の上に並ぶ、自分の井戸を見た。最後に、南東の山の、黒い塔を見た。
「……水が出る場所だから、陣を張った」
低い声だった。地図筒の革紐を握った拳が、動かなかった。
「水が来る場所でもあった、ってことか」
「同じ筋だ。地面の下を流れる水も、上を走る水も、同じ道を通る」
「掘ったのは、俺だ」
ウィンパーは、一度だけ目を閉じた。開けた時には、もう隊長の顔だった。
「工兵! 天幕をたため! 崖の上へ上がる!」
樽を担いでいたダルシーが、きょとんと振り返った。
「隊長、こんなに晴れてて――」
「峠でも、晴れてたな」
ダルシーは口を閉じて、駆けだした。
「アレク!」
キシェンが、どこからともなく戻ってきた。片手に、湯気の立つ羊の串焼きを三本。陣の端の酒保で、兵隊とサイコロを少々、だそうだ。三回、きっちり負けてきた。勝つより負けるほうが、相手の口は軽くなる。その金は俺の財布から出ていた。
「南の崖の上の、砂色の丸い天幕。リザードマンの補助兵だ。あいつらは、誰に言われなくても、最初から崖の上に寝てる。砂漠の民は、ワジで眠らない。子供でも知ってる掟だとさ」
キシェンは、串の先で北を指した。
「それと、北の端の、歩兵の第三隊。隊長がずいぶん年寄りで、昔、南の砂漠でワジの水に部下を持っていかれたらしい。陣じゅう聞き回った」
この短い間に、それだけのことを。どこで覚えたのかは、聞かなかった。
◇
第三隊の隊長は、白い髭の、背の曲がりかけた男だった。小さな焚き火に鉄の茶瓶をかけていて、俺たちを見ると、面倒くさそうに眉を上げた。
メルカの野帳を受け取ると、腕をいっぱいに伸ばして頁を遠ざけ、目を細めた。
「……字が、小さい」
「申し訳ありません。紙を、節約しておりまして」
ふん、と鼻を鳴らした老隊長の前に、ウィンパーが進み出た。
「工兵隊のウィンパーです。峠で、この山猿に命を拾われた。俺も、俺の百人も。こいつが来ると言ったら、来る。俺の隊は、もう上げました」
老隊長は、ウィンパーの顔と、俺の顔を見比べた。それから、崖の途中の線を、長いこと見上げていた。
「……三十年前だ。同じような晴れた晩だった。夜明け前に、地鳴りみたいな音が聞こえた。逃げる暇は、なかった」
まだ、迷っていた。三十年前に失ったものの重さと、参謀長に逆らう重さを、両手で量っている顔だった。
俺は、南東の黒い塔を見た。日は、もう地平線にかかっている。
「日が沈んだら、あの雲の根もとが光る。音は、届かない。雨がまだ続いてる、しるしだ」
日の縁が、砂の向こうに沈んだ。
ひと呼吸。ふた呼吸。
夕焼けの残る空の下で、塔の黒い根もとが、音もなく白く光った。
老隊長の手から、茶瓶の蓋が落ちた。
「……三十年前も、山のほうが、ああ光っていた」
老隊長は、そばの古参の兵に短く言った。
「天幕をたため。北の崖の上に移る。文句のある奴は、登ってから言え」
その夜、日の名残りが消える前に、第三隊の二百人が崖の上へ移った。続いたのは、輜重の小さな隊の百人だけだった。昔、この老隊長に拾われた男が、そこの隊長をしていた。
崖の道を登る列の背中を、ワジの底からの口笛が追いかけてきた。
メルカは道の脇に立って、登っていく頭を一つずつ数えていた。数え終えると、野帳の端に書いた数を、俺に見せた。四百と、少し。八千の、二十分の一だった。
◇
夜の崖の縁で、メルカは膝の上に野帳を開いていた。灯りはない。東の山脈の上が白く瞬くたびに、頁の数字が一瞬だけ浮かんで、また闇に沈む。
「……雨が、あのあと一時間でやんでいたとしても」
独り言だった。
「深さは、半分。それでも、大人の腰の高さです」
鉛筆の尻が、同じ割り算の上を、何度もなぞっていた。どこを動かしても答えの変わらない式の中で、変わってくれる数を、一つだけ探していた。
雨は、日暮れまでやまない。そう読んだのは、俺だ。俺は山の光の間を数えた。延びてくれ、と思いながら。
少し離れたところで、ダルシーが崖の下の一角を見ていた。
「あの辺りに、同じ村から来たのが、六人いるんだ。夕方、上がれって言いに行ったら、山猿の家来になったのかって、笑われた」
足もとの砂に、灰色の小さな木の玉が一つ、落ちていた。俺はそれを拾って、懐にしまった。
ワジの底には、まだ何千という兵が残っていた。




