第13話 『晴れてる間は、な』
南への十日は、ラクダの揺れの中で過ぎた。
山の風は、一日に二度、向きを変えて息をする。昼前に変わるぞと言った朝、メルカが手綱に結んだ細い糸は、昼を待たずに山のほうへなびいた。メルカはすぐに、時刻を書いた。
砂に埋める平焼きは、三日目にやっと焼けた。キシェンは「峠に帰ったら店を出せ」と言った。
そのキシェンのナツメヤシは、毎晩一つか二つずつ減っていった。
「メルカか」
「記録にありません」
キシェンのラクダが、知らん顔で口をもぐもぐさせていた。
北の釘星は、拳を重ねるたびに、わずかずつ地平線へ近づいた。メルカは日に何度もラクダを止めて、あの尾根に測量器を向けた。
崖の縁に立つと、足もとに、千を超える天幕が並んでいた。
ワジだった。山脈の方から大地を削って延びてきた、幅三百メートルはある涸れ川だ。両側は人の背丈の三倍ほどの切り立った崖で、その底の平らな砂と砂利の川床いっぱいに、白い天幕が、定規で線を引いたように並んでいる。馬の列。荷車の列。炊事の煙。川床のあちこちに浅い井戸が掘られていて、兵たちが桶で水を汲み上げていた。
その上で、数えるのをやめたくなるほどの旗が、陽炎の中に揺れていた。濃い紺の地に、金の細い線が、縦と横に網の目のように走っている。
「帝国の旗です」
ラクダの背で、メルカが言った。
「世界を、緯度と経度の網目に収める。その網目の真ん中に、帝国がある。……測量局で、最初に教わることです」
最初に峠を発ってから、二十一日。日誌の数えで、千五百二十二日目の昼前だった。メルカの計画の表より、一日遅い。
「……川の中に、陣を張ってる」
キシェンが、低く呟いた。
「いい場所に見えるんだろうな」と、俺は言った。「平らで、杭が打ちやすい。崖が、砂漠の風をさえぎる。底を少し掘れば、水も出る」
「晴れてる間は、な」
キシェンの言葉に、俺は、答えなかった。
◇
崖の上の見張りに止められたが、メルカが測量局の通行証を出すと、兵の態度はころりと変わった。俺とキシェンは、測量官殿の雇った案内人と荷物持ちということで、ついでに通された。
「荷物持ち、だってよ。峠を出てから、一回も昇進してないよな」
「元からだろ」
その時、崖の上の道の先から、大きな声が飛んできた。
「よう、山猿!」
陣の下手の、川床へ下りる雨裂の溝の上に、ウィンパーが立っていた。袖をまくり上げた腕の苔の深緑は、とうに砂漠の赤褐色に描き替えてある。後ろの溝から、土色の兵たちが水の樽を担いで上がってくる。その中で、ひょろ長い影が、樽を担いだまま片手をぶんぶん振っていた。ダルシーだ。
まわりの兵たちが、こちらを見て笑った。
「あれが、工兵の隊長が拝んでる山猿か」
「峠で百人拾ったって、毎晩その話だぜ」
「拝んではおらん。借りがあるだけだ」
ウィンパーは、笑い声を背中で払うようにして歩いてきた。日に焼けた四角い顔が、峠の時よりさらに黒い。
「月が満ちる前に、着いたぞ。三日ももたんところを、掘ってやった」
太い指が、川床の井戸を指した。
「陣がここに決まったのは、俺の井戸が出たからだ。この砂漠で、腕一本ぶん掘りゃ水の出る場所なんぞ、そうはない」
俺は崖の縁から、川床を見下ろした。
井戸の場所に、並びがあった。川床の真ん中を、白っぽい砂より少し黒い、石の粗い筋が一本、ゆるく蛇行しながら上流から下流へ通っている。桶を汲み上げている井戸は、全部、その筋の上にあった。崖の際にも、掘り返した跡の小山がいくつか見える。そこには、桶もなければ、兵もいない。
「崖の際に掘ったのは、空振りだったろ。水が出たのは、真ん中の、石の粗い筋の上だけだ」
ウィンパーの目が、俺を見た。
「……五つ掘って、三つ空振りだ。なんでわかる」
「上から見りゃわかる。粗い石が並んでるのは、水が強く流れた跡だ。あの筋が、川の通り道なんだ」
俺は、筋を上流へたどった。曲がり角の向こう、山脈のほうへ。
「この川は、今も流れてる。地面の下でな。あんたの井戸は、その流れに口をあけてる」
ウィンパーは、川床を見ていた。それから、崖の途中に顎をしゃくった。
「掘ってる時に、あれが見えた」
川床から、ちょうど俺の背丈ほどの高さ。崖の肌に、枯れ枝と枯れ草が帯のように引っかかって、一本の線をつくっていた。
「地図じゃ、この川の上は小さな谷が一本きりだ。だから、気にせんことにした」
ウィンパーは、地図筒を拳で一度叩いた。
「前の俺なら、地図を見て寝てた。今の俺は、地図を見て、寝つきが悪い。それだけだ」
伝令が走ってきた。地理院の測量官殿、参謀長閣下がお待ちです。
◇
参謀の天幕は、皇帝の御座所の隣にあった。
中は薄暗くて、涼しかった。大きな卓の上に、地理院の地図が広げられている。羊皮紙の上に、細い墨の線で、山とワジとオアシスが、驚くほど細かく描き込まれていた。
卓の向こうに、四十ほどの痩せた男が座っていた。きれいに撫でつけた灰色の髪。皺ひとつない紺の軍服の胸に、地理院の銀の徽章が光っている。指の長い手で、羽根ペンを、地図の上でゆっくりと回していた。
「参謀長のコスマスだ。測量局の、メルカ君だな。クリスタ院長の、自慢の弟子だそうだね」
「恐れ入ります」
「それで、そちらは」
「峠の案内人です。アレクと申します」
「案内人」
コスマスは、それきり俺から目を離した。
峠の岩だって、もう少し長く見てもらえる。
◇
それに気づいたのは、日が傾きはじめたころだった。
メルカの測量に付き合って崖の上を歩いていた時、首筋の産毛が、ちりちりと逆立った。耳の奥が、ほんのわずかに詰まる。呼ばれたように、東の空を見た。
月の山脈の、南東の稜線の上に、雲が湧いていた。
白い塔のように、まっすぐ上へ伸びている。その頂が、空の高いところで見えない天井にぶつかって横に平たく広がり、鉄床の形をつくっていた。塔の根もとだけが、墨を流したように黒い。その黒い底から、灰色の筋が何本も、山肌へ垂れ下がっていた。
「森の雲の蓋を、覚えてるか。ふだんの雨は、蓋の下でだらだら降る。あれは、日に焼けた斜面から、空気が蓋を突き破って、空のてっぺんまで駆け上がってる。あの下じゃ今、滝みたいな雨だ」
「でも、ここは晴れています」
「ああ。ここには、一滴も降らない」
俺は、崖の下の千を超える天幕を見た。
「でも、あの雨は、どこへ行くと思う」
メルカの目が、雲から足もとのワジへ走った。それから、野帳を開いた。この十日、何度も測り直していた尾根の数字の列を、指でなぞる。指が、途中で止まった。
「……このワジは、あの山から、延びてきています」
声が、かすれていた。
俺は、崖の縁にしゃがんだ。ウィンパーの見上げていた、あの枯れ枝の線。その下の崖の肌は、上より明らかに色が薄い。何かに、繰り返し洗われた色だ。崖に生えたタマリスクの枝には、ちぎれた布切れと白く乾いた藁の束が、あの線と同じ高さに絡みついていた。
「あれが、前の水の高さだ。ワジの底がこんなに平らなのは、水が何度も一気に流れて、底を均したからだ」
俺は、立ち上がった。
涸れ川は、死んだ川じゃない。眠ってるだけだ。
……今夜、来る。




