血まみれの旅人
「孤独は愛すべきものだ。だが今のお前は孤独に依存している」
師匠は時々、こういうことを言う。返事に困るやつだ。
依存も何も、話し相手が師匠しかいなかったんだから仕方ない。そう言ったら、師匠は黙って魔術書をまた読み始めてしまった。
――その師匠も、今はいない。いや、死んではいない。俺が追い出されただけだ。
おかげで今の俺は、立派に一人だ。
孤独がどうこうというのは、まあ、そういうものなんだろう。
雪の轍を踏みながら、そんなことを考えていた。次の町までは、もう少しのはずだった。
――ウォオオーッ!
人のものではない咆哮が、雪の静けさを裂いた。
少し遅れて、何かが激しくぶつかる音。
それきり、何も聞こえなくなった。
(誰かが仕留めたか。それとも、仕留められたか……)
前者なら、世界が一つ平和になっただけだが、後者なら――。
街道を外れて走っていた。
獣道の雪に、足が膝まで沈む。木の幹を掴んで斜面を下りる。枝の向こうが開けた。
雪原を、魔物のオークが歩いていた。俺より一回りも二回りも大きい。片手に、鉄の頭のメイスを提げている。
夕日を背にした影が、雪の上に長く伸びていた。
その影の先、岩壁の根元に、男が一人もたれるように座り込んでいた。
動かない。
(悪い方か……)
獣道を飛び出しざま、背負っていた旅の荷を投げ捨てる。その勢いのまま、鞘から剣を抜く。
「……見なかったことにしたいんだがな」
抜いた刃に、結界を重ねる。刃が、白い光を帯びた。
俺に気づいたオークは身を震わせ、一層大きい雄叫びをあげた。
「そう怒るなよ。横取りなんて、よくある話だろ」
雪を踏むたび、足の下に薄く結界を敷く。膝まで沈むはずの雪の上に、靴底が乗った。
オークが雪を蹴り、一気に距離を縮めてきた。
巨体の割に、速い。
メイスが振り上がる。
半歩、左へ。鉄の頭が、さっきまで俺のいた雪をえぐり、雪煙が上がる。
オークはメイスを雪から引き抜き、その勢いのまま振り下ろしてきた。
ドォン、ドォン、ドォン!
一撃ごとに、雪が爆ぜる。躱す幅を、一撃ごとに削っていく。半歩が拳ひとつに、拳ひとつが紙一枚に。
今度は横薙ぎ。上体だけを反らす。鼻先を、鉄の風が通り過ぎた。
(……なるほど)
振るたびに、腕ごと体が流れる。叩きつけたあとは、頭が下がる。
何度目か。袈裟懸けの振り下ろし、その起こりを捉えた。
合わせるように振り下ろしの外側へ、斜め前に踏み込む。
背中のすぐ後ろで、メイスが雪を叩いた。
目の前の下がってきた首に刃を添える。
白く光る刃は、思ったよりも軽く通った。
巨体が、前のめりに雪へ沈む。
剣を構えたまま、見下ろす。動かない。静寂の中、雪が徐々に赤みを帯びていった。
剣を振って血を払い、刃から結界を解いた。
(さて)
雪に転がった荷を拾い上げ、岩壁の根元へ歩く。
男は、さっきと同じ姿勢で座り込んでいた。額から流れた血が、頬で固まりかけている。
ただ、目が開いていた。
男は何か言おうとして、咳き込んだ。咳が収まるのを待ってから、もう一度口を開く。
「……助かった」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
「……名前」
「レイです」
「レイ……」
口の中で繰り返して、男はまた目を閉じた。胸は上下し、生きてはいる。
膝をついて、傷を見る。
額が、ぱっくりと割れていた。血の量の割に、傷は浅い。岩壁に叩きつけられたとき、頭を打ったのだろう。左の脇腹に手を当てると、男が呻いた。骨までいっているかは、分からない。
(治癒の魔術でも使えれば、話は早いんだけどな)
あいにく、俺に使えるのは結界だけだ。
荷から布を出して、額にきつく巻く。応急の手当てとしては、それが精いっぱいだった。
日は、もう山の端にかかっている。このまま夜になれば、ここはすぐに凍りつく。
軽く頬を叩いてみたが、目はもう開かなかった。
街道に戻って峠を下れば、町があるはずだった。
(しょうがないか……)
荷を胸の前に回し、男を背負って、町を目指した。
巻いた布に、じわりと赤が滲んでいった。
雪を踏む音だけが、しばらく続いた。
町の門に着いたのは、日が暮れて、門に灯が入った頃だった。
門番が二人、駆け寄ってきた。男を見て、顔色を変える。
「カイルじゃないか! 生きてるか!?」
一人が男を受け取り、もう一人が俺を見た。
「何があった?」
「倒れていたところを通りがかったものでして」
「カイルがこんなになるなんて……」
(俺はこれ以上かかわらないぞ)
背筋を伸ばし、外套から懐中時計を取り出して、目を落とす。
「後のことは、頼めますか?」
ゆっくりと、わざとらしくならないよう浅い一礼をした。
門番はあっけにとられ、言葉に詰まる。
「……は、はあ。ご丁寧に、どうも」
師匠の客あしらいの、見よう見まねだ。
妙に品が良く、それなりの所作を心得る旅人。そういう手合いに深入りしたがる者は、まずいない。師匠譲りの懐中時計で駄目押しだ。
さて、宿だ。
歩きながら、改めて自分の格好を確かめた。
肩から背中にかけて、赤黒い。背負ってきた男の血だ。襟も袖も、似たようなものだった。
(この格好で泊めてくれる宿、あるか?)
通りのどこからか、鉄を打つ音がしていた。規則正しい、重い音だ。
(鍛冶屋があるなら、店の並ぶ通りはこっちか)
音を頼りに夜の街を進みながら宿を探す。
なかなか見つからず、気づけば鍛冶屋の店先まで来てしまった。
門番に聞けばよかったと後悔し始めていた。
「ちょっと!」
振り向くより先に、手首を掴まれた。
「血だらけじゃん! どうしたの!? ヤバいじゃん!」
赤髪の女の子だった。俺と同じくらいの歳だろうか。無造作に束ねた髪が、店の灯りを受けて、炉の火みたいな色をしている。煤のついた前掛けに、肘までまくった袖。手首を掴む指は、見た目よりずっと力が強い。
その目が、まん丸に見開かれていた。
「少し急いでおりまして、お気遣いは――」
「いいから座って!」
聞いていない。
そのまま手をひかれ、軒先の木の椅子に、半ば押し込まれるように座らされた。
「本当に、大丈夫なので」
「うちの父さんも、そう言ったの」
女の子は店の奥へ駆け込み、すぐに水の入った杯を持って戻ってきた。俺に押しつけて、また奥へ。
「腰痛めてんのに、大丈夫、大丈夫って」
声だけが、奥から飛んでくる。次は水を張った桶と、手ぬぐい。足元に置いて、また奥へ。
「で、結局こないだ、一週間も休むことになったんだから」
最後に、薬草やら包帯やらを抱えて戻ってきて、桶の横に下ろす。そのまましゃがみ込み、手ぬぐいを浸して、きゅっと絞る。その間も、口は止まらない。
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないの。あたし、知ってるんだから」
父親の腰と一緒にされても困る。
絞った手ぬぐいを手に、女の子は下から俺の顔を見上げた。
「……で、どこが痛いの?」
どこも痛くない、と言う機会を、完全に逃した。




