第8話 去る朝、残る理由
書き置きは短くした。
『お世話になりました。皆さまの傷が癒えますように。クラーラ』
夜明け前の天幕。薄暗い中で荷物をまとめる。着替え。薬草袋。母さんの研究ノートの写し。毛布は置いていく。あの灰色の毛布は、ここに置いていった方がいい。
寝台の上に書き置きを置いて、荷袋を肩にかけた。
ここにいたかった。
……いたかったなんて、今さら言っても仕方がない。国王陛下の印がついた命令書だ。拒否すれば騎士団が反逆と見なされる。ヴォルフさんも、団長も、オスカーも、ここにいる全員が危険にさらされる。
私一人がいなくなれば、済む。
追放された朝と同じだ。荷物をまとめて、出ていく。違うのは、今回は荷造りリストを書く余裕すらないこと。それと、指の節が白くなるほど荷袋の紐を握りしめていること。
天幕の入口を開けた。
冷たい夜明け前の空気。東の空がうっすらと白んでいる。
ヴォルフが立っていた。
天幕の入口の横、柱に背を預けて腕を組んでいる。いつからいたのか分からない。ずっとかもしれない。
「こんな書き置き一つで去れると思ったのか」
手に、私の書き置きを持っている。いつ取ったのだろう。
「……ヴォルフさん。これ以上、騎士団に迷惑は」
「行くなとは言わない」
声が遮った。低くて、静かで、いつもの報告書を読むような調子。でも、ほんの少しだけ違う。
「だが、お前がいない騎士団は俺には守れない」
守れない。
あの人が。部下の命を何より重んじ、古傷を隠してまで剣を振り続けるあの人が。守れないと。
「……私がいなくて?」
「お前がいなくて」
繰り返された言葉が、夜明けの空気に溶けた。
返す言葉を探している間に、ヴォルフが一歩横にずれた。天幕の入口から、広場が見えた。
――騎士団の全員が、そこに立っていた。
完全武装。鎧が朝の薄明かりを鈍く反射している。縦列で整然と並び、正面を向いている。オスカーが最前列で拳を握っている。炊事係の老兵まで剣を帯びていた。
誰も声を出さない。鎧の擦れる音だけが、広場を満たしている。
オスカーが口を開いた。
「副団長。その……俺たちも、ここにいます」
それだけ。でもその一言の後ろに、何十人もの剣の重みがあった。
広場の中央に、団長ブルーノが進み出た。
大柄な体躯。白髪交じりの髭。普段は豪快に笑っているこの人が、今朝は別人のように静かだった。
「召喚命令には従う」
広場に響く声。
「クラーラの護送は、我が辺境騎士団が行う。同時に、辺境騎士団長ブルーノの名において、聖女追放の正当性に関する公開審問を国王陛下に上奏する」
上奏権。
王直轄組織の長が持つ権限。国王に直接、公開審問の開催を求めることができる。
「これは反乱ではない。王の臣下として、正当な手続きに則った上奏である。クラーラは我が騎士団の軍医だ。軍医の名誉は、騎士団の名誉だ」
団長が剣を抜いた。
ヴォルフが続いた。
オスカーが続いた。
一人、また一人。金属の音が連なって、広場を埋め尽くした。何十本もの剣が朝日を受けて光る。
私は荷袋を落としていた。いつ落としたか分からない。くるぶしの横に転がった袋を、拾えなかった。
「軍医殿」
オスカーの声。
「荷物、ほどいていいぞ。王都には俺たちが連れて行く」
視界が、滲んだ。
昨夜あれだけ泣いたのに。もう泣かないと思ったのに。
「……はい」
掠れた声が、精一杯だった。
その日の午後、辺境騎士団は王都に向けて行軍を開始した。
先頭に団長ブルーノ。その半歩後ろにヴォルフ。私は騎士たちの中央、護送対象の位置にいる。周囲を完全武装の騎士が囲んでいる。
馬上から振り返ると、駐屯地の門が小さくなっていく。あの門をくぐったのは、追放されて四日後の、疲れ切った午後だった。あの日の私は一人で、何も持っていなくて、足元がふらついていた。
今は違う。
隣にオスカーがいる。前にヴォルフがいる。後ろには何十人もの騎士がいる。
書き置きは、ヴォルフの懐に入ったままだ。返してもらっていない。たぶん、返すつもりもないのだろう。
あの書き置きを残した自分が、もう遠い。
王都まで五日。
私の手が本物であることを、今度は国王の前で証明する。




