第7話 泣いてもいい夜
お母さんが死んだ日と同じ、穏やかな初夏の午後だった。
駐屯地の裏手に小さな丘がある。騎士たちは使わない場所で、背の低い草が風に揺れているだけの、何もない丘。
私はそこに座って、母さんの形見の薬草袋を膝に載せていた。
ニワトコと甘草と薄荷。十年経っても匂いは消えていない。袋の布は擦り切れて、角の刺繍がほつれている。母さんが自分で縫った花の模様。
今日で、十年。
十二歳の冬、母さんは病室の寝台で私の手を握った。その手はもう治癒の光を失っていたけれど、温かかった。
「あなたの手は本物よ。大事な部分は覚えておきなさい」
覚えた。全部覚えた。研究ノートの重要な箇所は暗記したし、疫病の村では母さんの知識が人の命を救った。
でも、母さん。
覚えていたのに、偽物と呼ばれた。
十年間、母さんの治癒術を守って、磨いて、一日も休まず使い続けて。それでも「偽聖女」と呼ばれて追い出された。大神官は鑑定すらしてくれなかった。お義父様は母さんの遺産を盗んでいた。
全部知っているのに、母さんに報告する場所がない。
お墓参りにも行けない。王都にある母さんのお墓は、伯爵家の管理下だ。追放された今の私には近づくこともできない。
丘の上から、駐屯地が見える。訓練場で剣を振る騎士たち。炊事場の煙。救護天幕の白い布。
ここには居場所がある。でも母さんのいない場所で居場所を見つけることが、母さんを置いていくみたいで。
薬草袋を抱きしめた。草の匂いと、かすかに残る母さんの手の匂い。
鼻の奥が、じわりと熱くなった。
夜。
天幕の中にいられなくなって、外に出た。
月が出ていない。星だけの暗い空の下、天幕の裏手に座り込む。膝を抱えて、背中を天幕の布に預けた。初夏の夜風が湿っていて、肌に纏わりつく。虫の声が遠い。
泣いてなんかいない。
……泣いている。だめだ。
十年分の何かが、蓋を押し上げてくる。追放された朝、泣かなかった。荷造りリストを書いた。旅路でも泣かなかった。騎士団に来てからも、一度も。やることがあれば泣かずに済むと分かっていたから、ずっとやることを探し続けていた。
でも今夜は、やることがない。
母さんの命日。ただそれだけの夜。何も起きていない。何も起きていないのに、視界が滲んで、呼吸が途切れて、声にならない音が口から漏れた。
足音が聞こえた。
重い、規則正しい歩幅。知っている足音だ。
ヴォルフが、私の隣に座った。何も言わずに。
外套が、肩にかけられた。革と松脂と、少しだけ鉄の匂い。あの人の匂い。
「泣きたい時は泣け」
低い声。
「俺は見ていない」
見ていないと言いながら、外套をかけている。矛盾しているのに、その矛盾がちょうどいい距離だった。
大丈夫かとも聞かない。頑張れとも言わない。ただ座っている。暗闇の中で、体温だけが伝わってくる。
許されたのだと思った。
泣いてもいいと。ここにいてもいいと。
まぶたの裏が熱くて、何も見えなくなった。それでも、隣に座る人の気配だけはずっと分かっていた。
翌朝。
目が覚めたら天幕の中にいた。いつ戻ったのか覚えていない。枕が湿っている。外套はたたまれて寝台の脇に置いてあった。
救護天幕に向かうと、入口にヴォルフが立っていた。
「おはよう」
低い声。いつもと同じ。何事もなかったかのように。
ただ、黙って水の入った革袋を差し出された。
「……ありがとうございます」
受け取った時、ヴォルフの目が一瞬だけ私の顔に止まった。目元のあたり。腫れているのだろう。泣いた跡が残っているのだろう。
見ていなかったんじゃなかったのか、と思ったけれど、口には出さなかった。
水を飲む。冷たくて、鎖骨のあたりを落ちていく感覚がある。
「副団長」
呼びかけて、止まった。
この人は昨夜、何も言わずに隣に座ってくれた。外套をかけて、泣き止むまでそこにいてくれた。見ていないと言いながら、朝一番に水を持ってきてくれた。
「副団長」では遠すぎる。
「……ヴォルフさん」
言い直した。声が少し掠れていた。
ヴォルフの動きが、一瞬だけ止まった。水袋を持つ手が固まって、それからゆっくり下ろされる。
「ああ」
それだけ。でも、その短い返事の響きが、いつもより柔らかかった気がする。
気がするだけかもしれない。
そう思った直後、駐屯地の門を伝令が駆け抜けた。
「副団長、王都より至急の命令書です。国王陛下の印章つきです」
ヴォルフの表情が変わった。
命令書を受け取り、開く。
「……クラーラなる者を王都に出頭させよ」
国王の印。
拒否できない。騎士団の長であっても、国王直轄の命令には従わなければならない。
初夏の朝日が、命令書の封蝋を光らせていた。赤い光。血の色に似ている。
昨夜あれだけ泣いたのに、今朝はもう泣けなかった。泣くより先に、頭が動く。
ここから、どうすればいい。
私はまだ、答えを持っていなかった。




