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もう二度と聖女なんかやりません  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第7話 泣いてもいい夜

お母さんが死んだ日と同じ、穏やかな初夏の午後だった。


駐屯地の裏手に小さな丘がある。騎士たちは使わない場所で、背の低い草が風に揺れているだけの、何もない丘。


私はそこに座って、母さんの形見の薬草袋を膝に載せていた。


ニワトコと甘草と薄荷。十年経っても匂いは消えていない。袋の布は擦り切れて、角の刺繍がほつれている。母さんが自分で縫った花の模様。


今日で、十年。


十二歳の冬、母さんは病室の寝台で私の手を握った。その手はもう治癒の光を失っていたけれど、温かかった。


「あなたの手は本物よ。大事な部分は覚えておきなさい」


覚えた。全部覚えた。研究ノートの重要な箇所は暗記したし、疫病の村では母さんの知識が人の命を救った。


でも、母さん。


覚えていたのに、偽物と呼ばれた。


十年間、母さんの治癒術を守って、磨いて、一日も休まず使い続けて。それでも「偽聖女」と呼ばれて追い出された。大神官は鑑定すらしてくれなかった。お義父様は母さんの遺産を盗んでいた。


全部知っているのに、母さんに報告する場所がない。


お墓参りにも行けない。王都にある母さんのお墓は、伯爵家の管理下だ。追放された今の私には近づくこともできない。


丘の上から、駐屯地が見える。訓練場で剣を振る騎士たち。炊事場の煙。救護天幕の白い布。


ここには居場所がある。でも母さんのいない場所で居場所を見つけることが、母さんを置いていくみたいで。


薬草袋を抱きしめた。草の匂いと、かすかに残る母さんの手の匂い。


鼻の奥が、じわりと熱くなった。






夜。


天幕の中にいられなくなって、外に出た。


月が出ていない。星だけの暗い空の下、天幕の裏手に座り込む。膝を抱えて、背中を天幕の布に預けた。初夏の夜風が湿っていて、肌に纏わりつく。虫の声が遠い。


泣いてなんかいない。


……泣いている。だめだ。


十年分の何かが、蓋を押し上げてくる。追放された朝、泣かなかった。荷造りリストを書いた。旅路でも泣かなかった。騎士団に来てからも、一度も。やることがあれば泣かずに済むと分かっていたから、ずっとやることを探し続けていた。


でも今夜は、やることがない。


母さんの命日。ただそれだけの夜。何も起きていない。何も起きていないのに、視界が滲んで、呼吸が途切れて、声にならない音が口から漏れた。


足音が聞こえた。


重い、規則正しい歩幅。知っている足音だ。


ヴォルフが、私の隣に座った。何も言わずに。


外套が、肩にかけられた。革と松脂と、少しだけ鉄の匂い。あの人の匂い。


「泣きたい時は泣け」


低い声。


「俺は見ていない」


見ていないと言いながら、外套をかけている。矛盾しているのに、その矛盾がちょうどいい距離だった。


大丈夫かとも聞かない。頑張れとも言わない。ただ座っている。暗闇の中で、体温だけが伝わってくる。


許されたのだと思った。


泣いてもいいと。ここにいてもいいと。


まぶたの裏が熱くて、何も見えなくなった。それでも、隣に座る人の気配だけはずっと分かっていた。






翌朝。


目が覚めたら天幕の中にいた。いつ戻ったのか覚えていない。枕が湿っている。外套はたたまれて寝台の脇に置いてあった。


救護天幕に向かうと、入口にヴォルフが立っていた。


「おはよう」


低い声。いつもと同じ。何事もなかったかのように。


ただ、黙って水の入った革袋を差し出された。


「……ありがとうございます」


受け取った時、ヴォルフの目が一瞬だけ私の顔に止まった。目元のあたり。腫れているのだろう。泣いた跡が残っているのだろう。


見ていなかったんじゃなかったのか、と思ったけれど、口には出さなかった。


水を飲む。冷たくて、鎖骨のあたりを落ちていく感覚がある。


「副団長」


呼びかけて、止まった。


この人は昨夜、何も言わずに隣に座ってくれた。外套をかけて、泣き止むまでそこにいてくれた。見ていないと言いながら、朝一番に水を持ってきてくれた。


「副団長」では遠すぎる。


「……ヴォルフさん」


言い直した。声が少し掠れていた。


ヴォルフの動きが、一瞬だけ止まった。水袋を持つ手が固まって、それからゆっくり下ろされる。


「ああ」


それだけ。でも、その短い返事の響きが、いつもより柔らかかった気がする。


気がするだけかもしれない。


そう思った直後、駐屯地の門を伝令が駆け抜けた。


「副団長、王都より至急の命令書です。国王陛下の印章つきです」


ヴォルフの表情が変わった。


命令書を受け取り、開く。


「……クラーラなる者を王都に出頭させよ」


国王の印。


拒否できない。騎士団の長であっても、国王直轄の命令には従わなければならない。


初夏の朝日が、命令書の封蝋を光らせていた。赤い光。血の色に似ている。


昨夜あれだけ泣いたのに、今朝はもう泣けなかった。泣くより先に、頭が動く。


ここから、どうすればいい。


私はまだ、答えを持っていなかった。

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