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もう二度と聖女なんかやりません  作者: 九葉(くずは)


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第6話 「この者は我が騎士団の軍医である」

『偽聖女クラーラの即時引き渡しを命ずる 大神官マティアス』


その命令書を持ってきた使者は、旅装のまま駐屯地の門に立っていた。足首が浮腫んでいる。王都から急いで来たのだろう。


報告を聞いたのは、救護天幕で包帯を巻いている最中だった。オスカーが走ってきて、「使者が来ている。副団長が対応中だ」と。


包帯を巻き終えて、天幕に戻った。


荷物をまとめよう、と思った。


棚の薬草を袋に詰め直す。着替えを畳む。母さんの研究ノートの写しを荷物の底に入れる。毛布に手が止まった。あの夜、誰かが置いてくれた灰色の毛布。


ここにいたい。


……いたいとか、そういうことじゃなくて。迷惑をかけるわけにはいかないから。


騎士団が神殿と対立すれば、副団長も団長も立場が悪くなる。私一人がいなくなれば済む話だ。


荷造りをしながら、指が震えていることに気づいた。






門に向かおうとした私を、オスカーが止めた。


「いいから見てろ」


駐屯地の建物の陰から、門前が見えた。


ヴォルフが使者の前に立っていた。腕を組み、背筋を伸ばし、あの命令書を片手で握っている。


「引き渡しの要請は受け取った」


低い声。感情の色がない。報告書を読み上げる時と同じ調子。


「しかし、クラーラは我が騎士団の正式な軍医である。神殿の仮罷免は国王陛下の追認を経ておらず、法的拘束力に疑義がある。軍医の身柄引き渡しには、国王陛下の直接命令が必要だ」


使者の顔が強張った。


「大神官の命令ですよ。神殿の権威に逆らうおつもりですか」


「この者は我が騎士団の軍医である。神殿に返す理由がない」


もう一度、同じ言葉を繰り返した。声は揺れない。表情も動かない。


でも。


命令書を握る手が、震えていた。


紙がかすかに揺れている。あの大きな手が。使者には見えない角度で、小さく、確かに。


あの人なりの、譲れない線なのだと思った。


使者は何も言い返せなかった。ヴォルフの背後に、完全武装の騎士が三人並んでいる。哨戒から戻ったばかりの顔ぶれだ。誰も指示していないのに、自然とそこに立っていた。


使者が踵を返した。馬に乗り、門を出ていく。砂埃が舞い上がって、初夏の風に散った。






使者が去った後、ヴォルフが私の荷物を見た。


「何をしている」


「……荷造りを」


「誰が出ていけと言った」


言っていない。誰も言っていない。


「お前はここにいろ。それは命令だ」


命令。軍医への命令。それだけの言葉なのに、指の腹にじわりと汗が滲んだ。


「……はい」


荷物を天幕に戻す。畳んだ着替えを元の場所に置き、薬草を棚に戻す。毛布も、寝台の上に広げ直す。


やっぱりここにいるのだと思ったら、棚の薬草の配置がさっきより雑になっていて、それを直すことに夢中になった。


夜。


天幕の寝台に座って、密書を開く。ニワトコの葉。エミール様の印。いつもの薬草商経由だ。


『クラーラ嬢。重要な報告です。

リーゼロッテ嬢の聖印偽装に使われているのは禁呪具でした。他者の魔力を吸収・模倣する違法な魔道具です。禁呪具の鑑定記録も確保しました。

もうひとつ。伯爵家の財務記録を調べたところ、あなたのお母上の遺産が不正に名義変更されている形跡があります。不動産と現金を合わせて金貨五百枚相当。本来、すべてあなたに相続されるべきものです。

副神官エミール』


手紙を持つ手が、止まった。


お母さんの遺産。


金貨五百枚。不動産。名義変更。


「……え? 遺産?」


知らなかった。


母さんが何かを遺してくれていたこと。それがお義父様に奪われていたこと。聖女として神殿にいた十年間、世俗の財産のことなど何も知らされなかった。大神官に「聖女に世俗のことは不要です」と言われて、それが当然だと思っていた。


抜いた歯の穴を舌でなぞるみたいに、何度も同じ文面を読み返した。


禁呪具。遺産横領。記録改竄。


あの人たちがやったことの全貌が、少しずつ見えてくる。






翌朝、私はヴォルフの執務室を訪ねた。


密書を見せながら、できるだけ平坦に話した。禁呪具のこと。遺産のこと。声が震えそうになるのを、薬草の名前を数えることで抑えた。


ヴォルフは黙って聞いていた。


「騎士団の情報網で、伯爵家の財務記録を調べられるか確認する」


それだけ言って、オスカーを呼んだ。


「……ありがとうございます、副団長」


「ヴォルフでいい」


ああ、そうだった。いつからか、「副団長」では遠すぎると感じ始めている。でもまだ、その名前を呼ぶ勇気が出ない。


「……ありがとうございます」


結局、呼称は保留のまま、私は執務室を出た。


証拠が集まり始めている。真実が形を持ち始めている。私の手は本物で、あの人たちの嘘は、もう長くは持たない。

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