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もう二度と聖女なんかやりません  作者: 九葉(くずは)


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第4話 「偽聖女」と呼んだ者は腕立て千回

騎士団に来て三週間。


食堂のテーブルには無数の刃物傷が刻まれている。暇な時に騎士たちが彫ったらしい。星の落書き、誰かのイニシャル、勝敗表。指先でそれをなぞりながら煮込みを食べる朝が、いつのまにか日常になっていた。


煮込みは塩が足りない。けれど野菜は新鮮で、芋が崩れるほどよく煮てある。神殿の食事は上品だったが量が少なかった。ここでは好きなだけお替わりができる。


「軍医殿、おかわり」


オスカーが皿を差し出してくる。断る理由がない。


午前は救護天幕で騎士たちの怪我を診て、午後は薬草園の整理。夕方には訓練で打撲を作った若い騎士が「すみません軍医殿」と駆け込んでくる。忙しい。でも、誰かに必要とされる忙しさは、神殿での十年間とは手触りが違う。


ここでは、私の治癒はちゃんと届く。


……それだけに、ここを失うことが怖い。そう思い始めている自分に、気づかないふりをしている。






変化は、何気ないところから来た。


その日の夕方、薬草園で甘草の葉を選別していると、背後から声がした。


「クラーラ」


振り返る。ヴォルフが立っていた。


「明日の哨戒で南の森に出る。毒虫に効く塗り薬を用意しておけ」


それだけ言って、背を向ける。


……ええと。


今、名前で呼ばれた。


「おい」でも「お前」でもなく、クラーラ、と。


別に、名前で呼ばれるのは普通のこと。軍医なのだから、名前で呼ばれる方が自然だ。……普通のはずなのに、耳朶の付け根がじんわりと熱い。


「了解しました、副団長」


返事をしたときには、もうヴォルフの背中は遠かった。


夕食の席でオスカーが「なあ軍医殿、副団長に名前で呼ばれてたな」とにやにやしながら言ってきたので、私は甘草の葉を仕分ける作業に戻るふりをした。仕分けはもう終わっていたけれど。






翌日の食堂で、それは起きた。


昼食時。騎士団に配属されたばかりの若い騎士が、隣の席の仲間に言った。


「あの軍医殿って、王都で偽聖女やってた人だろ。よく副団長が雇ったよな」


偽聖女。


スプーンを持つ指が、止まった。


もう慣れた。……慣れたと思っていた。でも、その言葉は相変わらず正確に刺さる。神殿の大広間で大神官に宣告された朝の、白檀の匂いまで蘇ってくる。


食堂が静まった。


静まったのは、ヴォルフが口を開いたからだ。


「次にその言葉を使った者は腕立て千回だ」


振り返りもしなかった。スープを飲む手も止めなかった。ただ、声だけが食堂の空気を塗り替えた。


若い騎士が青ざめる。周囲の騎士たちが一斉に目を逸らす。食堂に、スプーンが皿に触れる音だけが戻ってくる。


オスカーが私の隣で、小さく息を吐いた。


「副団長がそこまで怒るの、俺は初めて見たぞ」


怒る。


あの人は、怒っていたのだろうか。声にも表情にも波はなかった。けれどスープを掬う手の甲の筋が、ほんの少しだけ、いつもより浮いていた気がする。


「……それはそれとして、腕立て千回は本当にやらせるんですか」


「副団長が言ったなら本気だろうな」


オスカーがにやりと笑う。


食堂を出るとき、ヴォルフとすれ違った。


「これからもクラーラと呼ぶ。問題があるか」


唐突だった。脈絡もなかった。


「……ありません」


それだけ答えて、私は救護天幕に戻った。背中がまっすぐ伸びていることに、途中で気づいた。






その頃、王都では。


鏡台の前で、リーゼロッテは自分の手のひらを見つめていた。


聖印の光が、昨日より薄い。禁呪具の腕飾りが肌に残す赤い痕を、長手袋で隠す。手首の内側がひりひりと痛む。最近はずっとだ。


「リーゼロッテ様、本日の治癒の依頼が」


侍女の声。


「今日は体調が優れないの。明日にして」


鏡の中のわたしは、笑っている。いつもの笑顔。可憐で、儚げで、誰もが守りたくなる顔。お父様に教わった顔。


でも、手のひらの光はごまかせない。


先週、高熱の子どもに治癒を試みて、何も起きなかった。禁呪具を通した魔力が、かすりもしなかった。子どもの母親の、あの目。信じていたものに裏切られた人の目。


お姉さまなら、治せたのだろうか。


……考えても仕方がない。


「お姉さまの居場所を突き止めて。辺境にいるという噂があるでしょう」


侍女が頷いて下がる。


鏡の中で、わたしはまだ笑っている。お父様が「お前は聖女だ」と言ったから聖女になった。嘘を始めたのはお父様だ。わたしはただ言われた通りにしただけ。


……本当に、それだけ?


腕飾りの赤い痕が、じくじくと痛んだ。

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