第3話 古傷と密書
騎士団で一番頑丈な男が、一番頑固な患者だった。
軍医として最初にやったのは、騎士全員の定期健診だ。辺境には専任の治癒師がいなかったから、古い怪我を放置している者が多い。肩の脱臼癖、膝の靭帯損傷、指の変形。一人ずつ診て、治せるものは治していく。
全員が健診を受けた。
ヴォルフ・ガルシュタイン副団長を、除いて。
「副団長は右肩に古傷がある」
教えてくれたのはオスカーだった。救護天幕の入口に寄りかかりながら、声を落とす。
「五年前、近衛にいた頃に戦場で部下を庇った。表面は塞がってるが、深いところがダメらしい。通常の治癒魔法じゃ届かないんだ。辺境に高位治癒師なんていないしな」
五年。
五年間、痛みを抱えたまま剣を振っている。それは治癒師として、というか、軍医として看過できない。
「高位治癒なら、深部の魔力経絡まで届きます」
「俺もそう思うんだがな。あの人、誰にも傷を見せたがらないんだよ」
オスカーが肩を竦めた。
その夜、私は見てしまった。
日課の薬草整理を終えて天幕を出たとき、訓練場の端にヴォルフの影があった。一人で素振りをしている。月明かりの下、剣が弧を描く。速い。正確。けれど。
右肩が、微かにぶれた。
剣が手から滑り落ちて、乾いた音を立てた。ヴォルフの左手が右肩を押さえる。顎の付け根が強張るのが、月明かり越しにも分かった。
「副団長」
声をかけたのは、考えるより先だった。
ヴォルフが振り返る。灰色の目が細くなった。見られたことへの苛立ちだろう。
「治療させてください」
「必要ない」
「必要です。私の治癒なら深部の魔力経絡まで届きます。このまま放置すれば、いずれ右腕が動かなくなる」
「……脅しか」
「診断です」
風が吹いて、訓練場の砂埃が舞った。ヴォルフは落とした剣を拾わない。
「軍医として、あなたの古傷は私の管轄です」
怒っている。……いや、呆れている。五年も放置するなんて。この傷の深さなら、庇った時に右腕を前に出したはず。誰かを守って負った傷だ。
「……好きにしろ」
その言葉を引き出すのに、どれだけの沈黙が必要だったか。
副団長室は狭かった。革と鉄と、ほんの少し松脂の匂い。窓際に置かれた松脂の壺は、剣の手入れ用だろう。
「上着を脱いでください。右肩を出していただければ」
ヴォルフは黙って従った。露わになった右肩には、古い傷跡が走っている。表面はきれいに塞がっている。通常の治癒魔法で何度か処置された跡だ。けれど指先で触れると、分かる。皮膚の奥、筋肉のさらに奥に、魔力の経絡が断裂した感触。硬く、冷たく、詰まっている。
「ここから先は高位治癒でないと届きません。少し、生命力を多く使います。私の手が光りますが、驚かないでください」
「ああ」
右手を傷跡の上に置く。集中する。聖印が淡く光り始め、治癒魔法が指先から浸透していく。表層を通り過ぎ、筋膜を抜けて、経絡の断裂した箇所に触れる。
ヴォルフの肩が、微かに跳ねた。
「痛みますか」
「いや」
短い返事。ヴォルフが目を逸らした。
痛いのだろう。五年間耐えてきた痛みが、治癒魔法で刺激されている。無理もない。
……と、そのとき。
私の右手を、ヴォルフの左手が包んだ。
「手が冷たい」
低い声。私の指を両手で挟み、自分の体温を移すように。武骨で節くれ立った指が、私の細い指を温めていく。
親指の付け根に、剣だこがある。その硬い感触が、やけにはっきりと伝わった。
「……温まったら続けろ」
言葉は素っ気ない。でも手は離さない。私の指先が温まるまで、ずっと。
治癒師として当然のこと。……というか、軍医として、患者の容体を確認しているだけだ。手が冷たいと治癒の精度が落ちるから、温めてもらうのは合理的な判断で。
合理的な判断のはずなのに、この手の温度に慣れてはいけない気がした。
理由は、分からない。
「……では、続けます」
経絡の修復に集中する。全部を一度には治せない。何度かに分けて、少しずつ。
でも確かに、私の治癒は届いていた。五年間、誰にも届かなかった場所に。
夜更けに天幕に戻ると、寝台の上に小さな包みが置かれていた。
油紙に包まれた手紙。封蝋はなく、薬草の乾燥した葉が一枚挟んである。ニワトコの葉。エミール様の目印だ。
震える指で開く。
『クラーラ嬢。お元気でしょうか。
治癒記録が改竄されています。あなたの十年間の実績が書き換えられ、大部分が削除されていました。原本は私が確保しました。
王都では、リーゼロッテ嬢の治癒が効かない患者が増えています。
どうかご自愛ください。 副神官エミール』
手紙を読み終えて、私はランタンの灯りを見つめた。
改竄。
十年分の、私の治癒の記録が。
ランタンの火が揺れる。それとも、揺れているのは私の方か。
でも、エミール様が原本を確保してくれている。十年間の証拠は、まだ消えていない。
そして、義妹の治癒が効かない患者が増えている。
あの子の聖印は偽物だ。私はそれを知っていた。知っていたけれど、証明する手段がなかった。
今は、まだ。
手紙をたたみ直し、荷物の奥に仕舞う。
今夜治療した右肩の感触が、まだ指先に残っている。
五年間、誰にも届かなかった場所に、確かに届いた。
それを証明するものが、少しずつ集まり始めている。




