表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう二度と聖女なんかやりません  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話 古傷と密書

騎士団で一番頑丈な男が、一番頑固な患者だった。


軍医として最初にやったのは、騎士全員の定期健診だ。辺境には専任の治癒師がいなかったから、古い怪我を放置している者が多い。肩の脱臼癖、膝の靭帯損傷、指の変形。一人ずつ診て、治せるものは治していく。


全員が健診を受けた。


ヴォルフ・ガルシュタイン副団長を、除いて。


「副団長は右肩に古傷がある」


教えてくれたのはオスカーだった。救護天幕の入口に寄りかかりながら、声を落とす。


「五年前、近衛にいた頃に戦場で部下を庇った。表面は塞がってるが、深いところがダメらしい。通常の治癒魔法じゃ届かないんだ。辺境に高位治癒師なんていないしな」


五年。


五年間、痛みを抱えたまま剣を振っている。それは治癒師として、というか、軍医として看過できない。


「高位治癒なら、深部の魔力経絡まで届きます」


「俺もそう思うんだがな。あの人、誰にも傷を見せたがらないんだよ」


オスカーが肩を竦めた。






その夜、私は見てしまった。


日課の薬草整理を終えて天幕を出たとき、訓練場の端にヴォルフの影があった。一人で素振りをしている。月明かりの下、剣が弧を描く。速い。正確。けれど。


右肩が、微かにぶれた。


剣が手から滑り落ちて、乾いた音を立てた。ヴォルフの左手が右肩を押さえる。顎の付け根が強張るのが、月明かり越しにも分かった。


「副団長」


声をかけたのは、考えるより先だった。


ヴォルフが振り返る。灰色の目が細くなった。見られたことへの苛立ちだろう。


「治療させてください」


「必要ない」


「必要です。私の治癒なら深部の魔力経絡まで届きます。このまま放置すれば、いずれ右腕が動かなくなる」


「……脅しか」


「診断です」


風が吹いて、訓練場の砂埃が舞った。ヴォルフは落とした剣を拾わない。


「軍医として、あなたの古傷は私の管轄です」


怒っている。……いや、呆れている。五年も放置するなんて。この傷の深さなら、庇った時に右腕を前に出したはず。誰かを守って負った傷だ。


「……好きにしろ」


その言葉を引き出すのに、どれだけの沈黙が必要だったか。






副団長室は狭かった。革と鉄と、ほんの少し松脂の匂い。窓際に置かれた松脂の壺は、剣の手入れ用だろう。


「上着を脱いでください。右肩を出していただければ」


ヴォルフは黙って従った。露わになった右肩には、古い傷跡が走っている。表面はきれいに塞がっている。通常の治癒魔法で何度か処置された跡だ。けれど指先で触れると、分かる。皮膚の奥、筋肉のさらに奥に、魔力の経絡が断裂した感触。硬く、冷たく、詰まっている。


「ここから先は高位治癒でないと届きません。少し、生命力を多く使います。私の手が光りますが、驚かないでください」


「ああ」


右手を傷跡の上に置く。集中する。聖印が淡く光り始め、治癒魔法が指先から浸透していく。表層を通り過ぎ、筋膜を抜けて、経絡の断裂した箇所に触れる。


ヴォルフの肩が、微かに跳ねた。


「痛みますか」


「いや」


短い返事。ヴォルフが目を逸らした。


痛いのだろう。五年間耐えてきた痛みが、治癒魔法で刺激されている。無理もない。


……と、そのとき。


私の右手を、ヴォルフの左手が包んだ。


「手が冷たい」


低い声。私の指を両手で挟み、自分の体温を移すように。武骨で節くれ立った指が、私の細い指を温めていく。


親指の付け根に、剣だこがある。その硬い感触が、やけにはっきりと伝わった。


「……温まったら続けろ」


言葉は素っ気ない。でも手は離さない。私の指先が温まるまで、ずっと。


治癒師として当然のこと。……というか、軍医として、患者の容体を確認しているだけだ。手が冷たいと治癒の精度が落ちるから、温めてもらうのは合理的な判断で。


合理的な判断のはずなのに、この手の温度に慣れてはいけない気がした。


理由は、分からない。


「……では、続けます」


経絡の修復に集中する。全部を一度には治せない。何度かに分けて、少しずつ。


でも確かに、私の治癒は届いていた。五年間、誰にも届かなかった場所に。






夜更けに天幕に戻ると、寝台の上に小さな包みが置かれていた。


油紙に包まれた手紙。封蝋はなく、薬草の乾燥した葉が一枚挟んである。ニワトコの葉。エミール様の目印だ。


震える指で開く。


『クラーラ嬢。お元気でしょうか。

治癒記録が改竄されています。あなたの十年間の実績が書き換えられ、大部分が削除されていました。原本は私が確保しました。

王都では、リーゼロッテ嬢の治癒が効かない患者が増えています。

どうかご自愛ください。 副神官エミール』


手紙を読み終えて、私はランタンの灯りを見つめた。


改竄。


十年分の、私の治癒の記録が。


ランタンの火が揺れる。それとも、揺れているのは私の方か。


でも、エミール様が原本を確保してくれている。十年間の証拠は、まだ消えていない。


そして、義妹の治癒が効かない患者が増えている。


あの子の聖印は偽物だ。私はそれを知っていた。知っていたけれど、証明する手段がなかった。


今は、まだ。


手紙をたたみ直し、荷物の奥に仕舞う。


今夜治療した右肩の感触が、まだ指先に残っている。


五年間、誰にも届かなかった場所に、確かに届いた。


それを証明するものが、少しずつ集まり始めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ