第2話 偽聖女の治癒が、騎士の命を救った
血と消毒草の匂いが混じり合って、救護天幕の中を満たしている。
揺れるランタンの灯り。担架の上の騎士は顔面蒼白で、腹部の裂傷からは止めどなく赤黒い血が滲んでいた。応急処置の包帯が巻かれているが、巻き方が荒い。左利きの人間が急いで巻いた跡だ。
「……どけ」
私の横で腕を組んでいた騎士のひとりが、別の騎士に囁いた。
「神殿崩れに何ができるんだ」
聞こえている。聞こえているけれど、今はそれどころじゃない。
手袋を外す。傷口に手をかざす前に、まず目で見る。裂傷は深い。腹膜まで達しているが、臓器の損傷は、たぶんない。出血量から逆算して、猶予はもう長くない。
「止血布と清水をください。それから、誰でもいいので患部を照らして」
声が出た。自分でも驚くほど平坦な声。
神殿にいた十年間、何百回も繰り返した手順。見て、触れて、判断して、癒す。考えるより先に指が動いた。
左手で止血布を押し当てながら、右手に治癒魔法を集中させる。生命力が指先から流れ出ていく感覚。裂けた筋繊維が繋がり、断たれた血管が再生していく。深い。もっと奥まで。
手のひらが光った。
聖印の紋様が、白く、強く。
救護天幕が静まり返った。剣戟の音も、ランタンの軋みも、遠くなった気がした。私の世界は今、この傷口と、自分の手と、流れていく生命力だけ。
どれくらい経ったのか。
傷が塞がった。出血が止まる。騎士の顔にわずかに血色が戻り、呼吸が安定する。
ランタンの灯りが揺れた。それだけのことなのに、光がさっきより明るく見えた。
「……こんな高位治癒を」
最初に声を出したのは、古参の騎士だった。赤毛の、がっしりした体格の男。オスカーと呼ばれていた。
「偽聖女って話じゃなかったのかよ」
誰かがそう言って、天幕の中がざわつく。私は黙って手袋をはめ直した。指先の感覚が少し鈍い。生命力の消耗。慣れた疲労感だ。
「……それはそれとして、包帯の替えはどこですか。この人、明日の朝まで経過観察が必要です」
我ながら、こういうところは変わらない。感情が揺れそうになると、次の作業を探してしまう。
翌朝。
駐屯地の広場に集まった騎士たちの前で、ヴォルフが口を開いた。
「昨夜の治癒を見た。軍医として正式に採用する」
それだけ。声に感情の色はなく、報告書を読み上げるような口調だった。隣に立つ団長のブルーノが「ふむ」と頷き、「異議のある者は」と広場を見回す。
誰も手を上げなかった。
あの「神殿崩れに何ができる」と囁いた騎士も、黙って前を向いている。
認められた。
……いや。認められたいからやったわけじゃない。あの人の傷が、そこにあったから塞いだだけだ。
でも。
肩甲骨の間がじわりと熱くなって、それは十年間の神殿生活で一度も感じたことのない種類の温度だった。
「軍医殿、これ」
オスカーが救護天幕の鍵を差し出した。武骨な鉄の鍵。柄の部分が手垢で黒ずんでいる。
「前任の軍医が使ってた天幕の鍵だ。薬草棚もそのまま残ってる。好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
鍵を受け取る。手のひらに収まる冷たい金属の重さが、なんだか、居場所の重さみたいだと思った。
薬草の棚。自分の天幕。鍵。
ここで暮らすのだ。
……それはそれとして、あの薬草棚、整理が必要だな。ニワトコと甘草が同じ段に入っていたら効能が落ちる。
夜。
割り当てられた天幕は狭かった。簡易寝台がひとつ、木箱がひとつ。天井の布が古くて、小さな穴が開いている。そこから夜空が覗いていた。星がひとつだけ見える。
神殿の個室には天窓があった。毎晩、星を数えながら眠ったものだけれど。
……比べても仕方がない。
寝台に腰を下ろそうとして、気づいた。
毛布が一枚、増えている。
朝、ここに荷物を置いた時には確かになかった。薄い灰色の毛布。織りが粗いけれど、分厚くて温かそうだ。辺境の夜は冷える。神殿育ちの私には堪える寒さだと、誰かが気づいたのだろうか。
誰だろう。
オスカーかもしれない。面倒見がいい人だった。それとも団長か。
毛布を広げて肩にかける。羊毛の匂い。少しだけ、鉄の匂いも混じっている。
ありがたいとも違う。なんだろう。
温かい、としか言えなかった。
言葉にならない感情を毛布ごと抱えて、私は目を閉じる。天井の穴から覗く星が、まばたきするみたいに揺れた。
ここでなら、眠れるかもしれない。
そう思ったのは、追放されてから初めてのことだった。
翌朝、救護天幕で包帯を替えていると、オスカーが顔を出した。
「おはよう、軍医殿。昨夜の患者、もう粥を食いたいと騒いでるぞ」
「それは回復が早いですね。ただ、今日いっぱいは流動食で」
「了解。……あと、ひとつ」
オスカーの表情が少し曇る。
「王都から通達が来た。『偽聖女の行方を捜索せよ』だと」
舌の付け根が、重くなった。
「……私のことですね」
「副団長は握り潰すだろうけどな。一応、知っておいた方がいいと思って」
オスカーが去った後、私は手元の包帯をきつく巻きすぎていたことに気づいた。少し緩めて、巻き直す。
王都は、まだ私を追っている。
ここにいることが、騎士団に迷惑をかけるかもしれない。
でも。
目の前には、昨夜塞いだ傷が、きれいに治りかけている騎士がいる。窓の向こうでは訓練の剣戟が聞こえ、誰かが怒鳴り、誰かが笑っている。
ここで、もう少しだけ。
包帯を巻く手を止めないまま、私は自分にそう言い聞かせた。




