第1話 追放の朝、私は荷造りリストを書き始めた
もう二度と、聖女なんかやるものですか。
大神官マティアスの声が大広間に響いたとき、私は自分の手のひらを見ていた。十年間、何千もの傷を塞いできた手。聖印の紋様が薄く光っている。
「本日をもって、偽聖女クラーラの聖女位を仮罷免とする」
偽聖女。
その烙印が、香炉から立ちのぼる白檀の煙と一緒に大広間を満たしていく。神官たちが息を呑む気配。義妹のリーゼロッテは大神官の隣で目を伏せ、小さく唇を震わせている。可憐な演技だった。十年も一緒に暮らせば、あの子の嘘泣きと本泣きの区別くらいつく。
「聖印の鑑定を求めます」
私の声は思ったより平坦に出た。
「私の聖印とリーゼロッテの聖印を並べて、王立魔法学院の鑑定士に精査していただければ、真贋は明らかになるはずです」
大神官が片方の眉を上げた。あの癖。説教の前にいつも出る。
「聖印の真贋判定は大神官の専権事項である。私が鑑定した。クラーラ、これ以上の異議は認めない」
鑑定した。そう言い切った大神官の爪が、不自然なほど白かった。爪床から血の気が引くのは、人が嘘をつくときの身体反応のひとつ。十年間、治癒師として何千人もの患者の手を見てきた私が、見間違えるはずがない。
ああ、この人は知っている。
知っていて、選んだのだ。
奥歯の裏側に苦いものが広がって、それから、不思議と頭の中が静かになった。悔しい。……いや。悔しいとか、そういう話じゃない。十年分の朝食の回数を数えるような、無意味な計算が頭の中で回り始めて、私はそれを途中で止めた。
代わりに、懐からメモ帳を取り出す。
「少しだけお待ちを。持ち物の確認をしますので」
大広間が、しん、と静まった。
薬草の乾燥棚に残っている分。救護室の包帯の替え。母さんの研究ノートの写し。寝台の下に置いた替えの靴。ひとつずつ書き出していくと、指先の震えが止まった。
やることがあるうちは、泣かずに済む。
それは十年かけて覚えた、私なりの処方箋だった。
神殿の裏口で待っていてくれたのは、副神官のエミール様だった。母さんの弟子。母さんが死んでから、私を気にかけ続けてくれた、数少ない人。
「辺境の騎士団が軍医を探しているそうです。腕のいい治癒師がいないと聞きました」
小さな薬草の束を差し出しながら、エミール様は声を落とした。
「旅費の代わりに。道中で困ったら、これを薬商に見せなさい。質は保証します」
薬草の匂いが鼻をくすぐる。ニワトコと甘草と、少しだけ薄荷。母さんがよく調合していた組み合わせ。
「……ありがとうございます」
それ以上は、喉が詰まって言えなかった。
エミール様は何も聞かなかった。ただ、門の外まで見送ってくれて、最後に一度だけ頭を下げた。
辺境までは馬車と徒歩で四日かかった。
薬草を旅商人に見せたら、「ほう、いい品だ」と荷台の隅に乗せてもらえた。荷台には干し肉と麦袋の匂いが染みついていて、揺れるたびに腰が痛んだ。
三日目の夜、野営地で焚き火にあたりながら、ふいに気づいた。
ほっとしている。
追放されて、居場所を失って、所持金もほとんどなくて。なのに、鎖骨の窪みのあたりから力が抜けていく感覚がある。それは十年間、ずっと張りつめていた何かが、湿布を剥がすみたいにゆっくり剥がれていく感じで。
……おかしな話だ。
喜ぶような場面じゃない。でも、母さんの治癒術は本物だ。この手で治せるものがある。それだけは、誰に何と言われても変わらない。
母さんが最後に言ってくれた言葉を、胸の中で繰り返す。
大事な部分は覚えておきなさい。あなたの手は、本物よ。
四日目の昼過ぎ、旅商人の馬車から降りた。目の前に、石造りの砦が立っていた。
辺境騎士団の駐屯地は、神殿とは何もかもが違った。
門の脇に積まれた薪。訓練場から聞こえる剣戟の音。すれ違う男たちの腕は傷だらけで、鎧の端が錆びている。白檀の香りの代わりに、鉄と汗と土の匂い。
「神殿崩れか」
声のした方を見上げた。
門の前に腕を組んで立っていたのは、長身の男だった。黒い髪を無造作に束ね、右肩に古い傷跡が見える。副団長と呼ばれていた。名前はヴォルフ。
「軍医の募集があると聞いて参りました」
「神殿崩れは戦場で役に立たない」
素っ気ないというより、事実を述べるような口調。目が合った一瞬、冷たい灰色の瞳の奥に何かが揺れた気がしたけれど、たぶん気のせいだ。
「それでも、治癒はできます」
「治癒ができるかどうかは、戦場で見る」
会話はそれだけで終わった。ヴォルフは私に背を向け、駐屯地の中へ戻っていこうとする。
その瞬間、足がもつれた。四日分の疲労が、膝にきた。
地面が近づいてくる。
腕を掴まれた。
ヴォルフの手。硬くて、広くて、節くれ立っていた。一瞬だけ力が入って、すぐに離された。
「足元に気をつけろ」
背中を向けたまま、それだけ。
……なんだ、あの人。乱暴なんだか丁寧なんだか。
そんなことを考えている場合じゃなかった。正面の門から、騎士が二人、担架を担いで駆け込んできたからだ。
担架の上に横たわる男の腹部から、大量の血が流れていた。
「副団長、哨戒中に魔獣と遭遇。腹部に深い裂傷です」
ヴォルフが立ち止まった。振り返る。灰色の目が私を射抜いた。
「治せるか」
問いかけではなく、試すような声。
担架の上の騎士の顔色は蒼白で、出血量から逆算すると、猶予はわずかだ。傷の深さ、出血の速度、意識レベル。十年間で身につけた計算が、頭の中を走る。
「……治せます」
私の手は本物だ。
それを証明する機会が、こんなに早く来るとは思わなかったけれど。
血の匂いの中に踏み出しながら、私は追放の朝に書いた荷造りリストのことを、もう忘れていた。




