『なにごとも、やってみなきゃ、わからない』 管理人側視点
次の日からはじまった僕たちの集まりは、バーシュウレイングループの戦略本部(別名。
アカデミーBSR)で行われる運びとなった。
隣町との境界線になる河川沿いの道路を、車で五分ほど登った高台の一角。十数年前に廃校になった跡地。
周囲は手入れの行き届いた広葉樹林。空気は澄んでいて、見晴らしもよかった。
青い芝生を優しく照らし出しているのは、木々の間から漏れた日の光。耳をくすぐるような鳴き声は、ハルゼミなのかもしれない。
僕たちを出迎えたメンバーが案内してくれたのは、裏山を背景に建つログハウス。七棟のうちで、一番ちいさな棟だった。
昼食及び、食後の飲み物は、バーシュウレイン料理研究チームによる試作品。
「食材をはじめ、調味料に至るまで、すべて契約農家と関連業者からの提供品なんです」 料理担当者は、そんな説明をしてくれた。
ちなみに初日のメニューは、味噌汁付きの親子丼。食後に、水出し玄米茶。いずれも、血糖値が上がらない調理法を用いてあるらしい。
「では、こちらへどうぞ」
食事が終わると、カモシンは隣の部屋のドアを開けた。
広さ八畳程度。真正面に透明度の高いガラス窓。部屋の中央に、高級中華料理店で見かけるような円卓。それを取り囲むように置かれているアーロンチェアと、パソコンが乗ったサイドテーブル。
はやい話、チカチカマンションの、ジャンスペとほとんど一緒。四角いテーブルが、円卓に。椅子がひとつ増えただけ。
ただし、防音性は極めて高い。外部の音は聞こえない。といっても、息詰まるような雰囲気ではない。ここにいるだけで、身も心もリラックス。そんな感じ。
ガラス窓の向こうの、風にそよぐ雑木林。組み合わされたむき出しの丸太。そこはかとなく漂う木の香。それらの相乗効果のおかげなのだろう。
みんなが席に着くとカモシンは、ちいさな咳払いのあと、シロワンミ氏に顔を向けた。「お願いがあります。昨夜教えて頂いた、あの二か所にまつわる話があったら、教えてくださいませんか」
カモシンのそのセリフは、ここに着くまでの間に、僕たち四人が取りまとめたものだった。
その提案者である僕は、息を殺して彼の答えを待った。
「え? なんのことですか?」
シロワンミ氏は、ぽかんとした顔になった。
「あの二カ所? どの二カ所のことですか?」
予想通りの結果に、僕はテーブルの下で拳をぎゅっと握りしめた。
僕の推理は当たった。
明らかに記憶の中から、昨夜の最後のシーンが抜け落ちている。
帰り間際に、シロワンミ氏は、こういった。
「このあたりには、絶対に足を踏み入れてはならない場所が、二カ所あります」
そのあと顔を強張らせて、スマホを取り出した。
「ここと、ここだけは、絶対に近寄らないでください。どのようなことが、あってもです」
画面にあったのは、僕のアパートと、チカチカマンションの所在地を示す地図。
「長年タクシーの運転手をやっていましたが、幸いなことに、この二カ所に向かう人は一人もいませんでした。これも、ご住職様のご加護のおかげだとわたしは思っています」
僕は外の景色を眺めるふりをして、ベッキーとガウチに、目でいった。
「ほらね」
僕はここに向かう車の中で、こう断言したのだ。
「この僕は、シロワンミさんの、タクシー人生最後の乗客でした。でも、その僕を乗せて、あの二カ所を往復したことさえ覚えていないんです。だから、昨夜僕たちに忠告したあの件も、記憶から抜け落ちているはずです」
僕の目配せは、カモシンにも伝わったらしく、彼女はさり気なく話題を変えた。
「失礼しました。どうやら、わたしが何かを聞き間違えていたみたいですね。それでは、自分がやりたいことを、一人ずつ発表していただきましょうか」
それからカモシンは、打ち合わせ通り、僕が最後になる順番で指名を開始した。
バーシュウレインの三人に送ってもらって、アパートに帰り着いたのは、夕暮れが迫ったころだった。
一刻もはやくカロンの気持ちを確かめたかった僕は、玄関のドアを開けたところで訊いた。
「聞いてた? 今日の話」
「なんのこと?」
予想していた通りの、とぼけた返事。でもその口調が、肯定を意味していることを僕は知っている。
「ログハウスでの、僕たち五人の会話だよ」
気のない声が返ってきた。
「ああ、あれのことね……なにかごちゃごちゃ聞こえていたみたいな気はするけど……」
僕は脱いだ靴下を、洗濯機の中に放り込み、風呂場で手足を洗いながら、次の質問をした。
「じゃあ、法律に触れない限り、すべての依頼を引き受ける。全国にいるバーシュウレインメンバーの話も聞きに行く。僕のあの決意表明も届いていたわけだね」
「覚えていないけど、いわれてみれば……」
常に弱まる語尾。でも全然気にならない。
「聞いた話を、物語風にしてネットに上げるってところも聞こえていたんだよね」
「さぁ? どうだったかしら……」
それだけ聞けば、十分だった。
僕は今の会話の流れから、カロンの本音を、こんなふうに受け取った。
「聞いていたわよ。最初から最後まで一言も漏らさず。自分で決めたことなんだから、途中で諦めないでね。心配いらない。ずっと居てあげる。あなたの行動のすべてを、見ててあげる。あなたがすべてをやり遂げるまで」
これでカロンと僕は、永遠に一緒に過ごすことができる。
そう確信したとたん、僕の心の中の歯車が、カチッと噛み合ったような気持ちになった。それまでの、ぼやっとした自分が消えたような気がした。
日本人として初めて百メートルを、九秒台で駆け抜けるのは、このおれ。
ジョークではない。本当にそう思った。
夕食は、料理研究チームにもらった一週間分の冷凍食品の中から選んだ。
ウナギ味のナマズ丼を、電子レンジで、チン。
大急ぎでそれを食べ終えた僕は、携帯電話の入ったウエストポーチを腰に巻きつけると、食後のお茶も飲まずに、マスターキーを片手に部屋を飛び出した。
「どこにいくつもり?」
カロンが、ちょっとびっくりしたような声で訊いた。
「見ていれば、わかると思うよ」
僕は蛍光灯に照らされた薄暗い階段を、足早に駆け下りた。
「昨日いわなかったかしら、わたしのここからだと、何も見えないって」
びくっとした拍子に、薄暗くなった一階の廊下で足が止まった。
こんな口調になったときのカロンは、要注意。下手な受け答えをすると、機嫌を損なう。それで済めばいい。さよならなしで消える可能性だってある。
僕は内心びくびくしながら、その理由を口にした。
「このアパート、どこかおかしいんだ……だから……」
「どんなふうにおかしいの?」
秘密にするつもりはなかった。自分の仕事の意味を考えているうちに、別の疑問が生じ始めたのだ。
でも、僕の場合、単なる思い込みの可能性が高い。確かめる前に、いい加減なことはいえない。しかし、ここは、何かいわなければならない場面。僕はとりあえず頭に浮かんでいた漠然としたものを言葉にしてみた。
「一言でいえば、繋がっていない……かな?」
しばらくの間を置いて、笑いを含んだ声が返ってきた。
「あなたの頭の中と、一緒ってこと?」
自分の頭の中を見たことはない。でも、たぶんそうなんだろう。心に余裕ができたのか、ふと思いついた。
その気配を感じ取るきっかけになったことを並べるだけで、この場を切り抜けることができる。
「今朝気づいたんだけど、このアパートのどこをどう探してみても、電気の引き込み線が見つからないんだ。それだけじゃない。どこかになければならないメーター類が、ひとつもない。でもテレビは映る。蛍光灯もつく。水道も、ガスも同じ。栓をひねると、水は出る。風呂も沸く。ガスコンロで料理もできる。しかし、電気、水道、ガス料金の請求書も、督促状もみたことがない。毎月の給料はもらっている。でも、給料配達員の顔を見たことはない。ねっ、何かが欠けているだろ。繋がっていないだろ」
するとカロンが、珍しく真っ当な意見を口にした。
「それって、何もかもがうまく回っているってことなんじゃないの? その裏にあるのは、あなたに余計な仕事をさせたくないという、親心のようなものなんじゃないのかしら」
疑問は消えない。それどころか、自分の直感は正しい。考えはそっちの方に傾きはじめた。
このアパートには、世間の常識を超えた何者かが棲み付いているのだ、きっと。
毎朝の通水。あれは、水道管の破損や悪臭の発生を未然に防ぐためのものではない。何か別の意味があるはず。朝の換気は、夜中に漏れ出した怨念を拡散させるためのもの。このアパートは、魔物を閉じ込めるための重石。その想像は、すぐに確信に変わった。
でも相手は、カロン。証拠もなにもないこの段階で、そんなことを口にできるわけがない。
かといって、ここで黙り込んでしまえば、引き返すしかない。そうなると、二度とこの件をいい出せなくなる。
八方塞がりの中、一歩前進に繋がるシンプルな考えが浮かんできた。
「実をいうとね」すこし大きな声でそういってからつづけた。
「このアパートの管理人になって、数年経つ。朝の換気と水道栓をひねるだけの単純作業に甘んじる時期は過ぎた。そんなわけで、今日から、夜の巡回もやろうと思ったんだ。手を抜くわけじゃないから、誰も文句はいわないと思う」
いいながら、口が滑ったと思った。
結果的に、カロンに嘘をつくことになるかもしれない。
101号室のドアを開けた瞬間、悲鳴を上げて逃げ出さないとも限らない。たぶんその時点で、カロンとの縁は切れる。でも、そうなったら、そうなったで構わない。自分のやりたいことを曲げると、いつかきっと後悔する。
心を決めたついでに、周囲を見回した。
いつの間にか、闇に沈んでしまった廊下のあたりに、変わった様子は見受けられなかった。しかし、足元に感じる得体のしれない気配のようなものは、確実に増している。
気が付くと、両手が細かく震えていた。日が落ちて間もない時間で、この震え。夜中まで待たずによかった。丑三つ時じゃなくてよかった。
「じゃあ、リアルタイムで中の様子を、きみに教えることにするよ。それでいい?」
うれしいことに、声は震えていなかった。
「了解、了解」カロンが声のトーンを上げた。
「ただいまから、夜の巡回ライブ中継の、始まり、始まりー。果たして、このあと、どうなりますやらー」
鼓膜の内側から届いた甲高い声に、僕はつづいた。
「そういうこと、そういうこと。鬼が出るか蛇が出るか、ドアを開けてみなきゃ、わからない」
カロンに負けないくらいの明るい声でそういった僕は、震える右手に左手を添え、マスターキーの鍵先を、101号室の鍵穴にそっと差し入れた。




