『急展開の気配』 バーシュウレイン側視点
ベッキーは促されるままに、ふたつの言葉を頭の中に思い浮かべた。しかし、そのあとの作業をする必要はなかった。
ふたつの言葉は、勝手に融合し、あっという間に三文字の漢字『冥王星』に姿を変えたからだ。
その瞬間、ベッキーは、自分の愚かさを悟った。
どうしてこんな簡単なことに、気づかなかったのだろう。
ベッキーの体から、力が抜け落ちた。
カモシンとシロワンミ氏が聞き間違えただけの話。幼稚園生でもわかるレベル。それを、難しく難しく考えていた自分が情けない……
ため息とともに、弛緩した体を椅子にもたせかけようとしたベッキーは、はっと身を硬くした。
だとすると、これは、行方不明になった娘さんからの、メッセージの言葉。
だが、そこでちょっと待てよ、と思った。
自分のような人間に、霊界からのメッセージが降りてくるはずがない。世の中に完璧な人間はいない。ちぎれ雲さんも、わたし同様、聞き間違えたのだ。
そのように考えると、今の声は『目を押せ』が正解。
言葉の意味は分からないが、そう考えた方が、納得できる。だってカモシンが声を聞いたのは、今日で二回目。そのカモシンのポストイットにある文字は『目を押せ』
それだけではない。カモシンは、いまも自分の両腕をさすっている。この仕草は、何らかの興奮状態によって生じた鳥肌をしずめるためのもの。
確かに数の上では、三対二。しかし、このようなケースに、多数決の原理は当てはまらない。
だがベッキーは、その考えを頭から追っ払った。
いや違う。わたしは聞いた。この耳で聞いた。絶対に『めいおうせい』鼓膜の裏に、いまもはっきり残っている。
ベッキーの頭の中で、堂々巡りをはじめた疑問を解消してくれたのは、何か言いたそうな目を、バーシュウレインの三人に注いでいたシロワンミ氏だった。
「ふたつの声に関する情報は、多くの人々から寄せられています。でも残念なことに、その声を聞いた人からのものではありません。すべて伝聞です」
シロワンミ氏は、ひとりひとりの目を見ながらつづけた。
「でも伝聞とはいえ、信頼性の高いものばかりです。というのも、どの話にも共通点があるのです。新月の夜、頭上から、若い女の声。違うのは、声の内容のみでした」
シロワンミ氏は、テーブルのポストイットに視線を移動させた。
「わたしにとって、このふたつの言葉は謎でした。でも今日、自分の耳で確認できたことで、その謎は解けました」
シロワンミ氏は、そのような前置きのあと、片手をポストイットに伸ばした。
「空からの声は、ひとつしかありません」
シロワンミ氏が、みんなに向けて見せたのは『めいおうせい』だった。
彼は、その文字を見つめたまま、歯切れのいい声でいった。
「これが、目を押せ、と聞こえたのは、聴力に難があるからです」
そのあと、一つの流れのような動きでカモシンに顔を向けたシロワンミ氏は、躊躇することなく不躾な質問を投げかけた。
「このような聞き間違えは、若いころからだったんですよね」
そのセリフに、びくっと体を震わせたのは、本人ではなく、ベッキーだった。
なによ、その決め付け方。あんまりよ。さすがのカモシンも怒るわよ。
だがカモシンは、ちょっと驚いたように目を見開いただけだった。
「どうして、それがわかるんですか?」
しかしシロワンミ氏は、それには答えず、再度、決め付けたようなセリフを口にした。
「若いころ、ジャズ喫茶に入り浸りだったでしょ」
このセリフに、小首を傾げたのは、またしてもベッキーだった。
なんなの、この自信たっぷりな言い方。やっぱり、シロワンミさんには、常識を超えた能力が備わっているってことなの?
でもそんな話、カモシンから聞いたことはない。これって、昔どこかのジャズ喫茶で出会ったことを、カモシンだけが覚えていないとも取れるけど、実際のところは、どうなのかしら……
関心が別のところに移ったベッキーは、体をひねるようにして、カモシンの横顔に目を凝らした。
カモシンの表情に、変化が起きた。
季節外れのホルモンタンク。ベッキーとガウチが、羨望の意味も込めてそう名付けたカモシンのふくよかな目元が、ふっと緩んだ。そして、どこか遠くを見るような目をして「そうだったわよねぇ」といった。
「あの頃、鼓膜が破れるくらいの大音響でロックが聴けるところといえば、そんなところしかなかったもんね」
口調は、親しい友人に話すようなものに変わっていた。それに気づいたのかどうかわからないが、シロワンミ氏は、誘導するようなセリフを口にした。
「で、家の中では、ヘッドホン」
「そうそう」カモシンは嬉しそうな顔で何度もうなずいた。
「ご近所さんとうまく付き合うには、それしかなかった。当時はなんとも思わなかったけど、ヘッドホンには感謝しなきゃいけなかったのよね。ヘッドホンのおかげで、夜中の三時でも、心置きなくロックが聴けたわけだから」
とそこでカモシンは、我に返ったように腕時計に目をやった。
「このつづきは、明日ということでいいですか?」
中途半端なところで話を打ち切られた格好になったシロワンミ氏が、怪訝な表情で何か言おうとする前に、カモシンはちぎれ雲に顔を向けた。
「そろそろ帰りましょうか」
カモシンのその言葉で、ベッキーは、しばらくの間、ちぎれ雲の声を聞いていなかったことに気づいた。
あ、いけない。この中でいちばん大事な人を無視していた。不満顔を予想しながら、恐る恐るちぎれ雲の表情を伺うと、意外なことに、上機嫌だった。今にも口笛を吹きそうな表情に、ベッキーはかすかな違和感を覚えた。
「そうですね」彼は明るい声でいった。
「毎日でも会えるようになったみたいですから、そうしましょうか」
ちぎれ雲の言葉を受けて、カモシンは、シロワンミ氏に確認の質問をした。
「このメンバーの一員になって頂けるんですよね」
姿勢を正したシロワンミ氏は、緊張した面持ちで一礼した。
「役立たずですが、どうぞよろしくお願いいたします」
にこりと笑ったカモシンは、みんなを見回した。
「わたしとしては、この出会いを機に、何か新しいことをやりたいと思うの。どんなことでもいい。荒唐無稽、世の中の人から笑われるようなこと、何でもけっこう。みんなの前で発表して欲しいの」
その言葉で、ベッキーは胸のしこりがほぐれるのを感じた。
カモシンとシロワンミさんの頭の中でも、自分と同じ現象が起きたのだ。二つの言葉は融合して冥王星になった。そしてふたりはそれを、行方不明になった娘さんからのメッセージと受け取った。そういえば、シロワンミさんは、こんなことをいっていた。
望遠鏡を持ったまま神隠しにあった娘さんの話を聞くと、わけもなく鳥肌が立つんです。
彼が集めたデータの中には、当然、神隠しにあった娘さんに関するものも含まれているはず。行方不明者からのメッセージ『冥王星』の謎を最初に解き明かすのは、彼なのかもしれない。
「じゃあ、そういうことで」
カモシンがそういったところで、ベッキーはねぎらいの意味も込めて、シロワンミ氏に声をかけた。
「シロワンミさんの話をざっと伺っただけでも、このあたりには、数知れない民話が埋もれているみたいですね」
帰り支度のため、隣の椅子に置いた反射タスキに手を伸ばそうとしていたシロワンミ氏が、ちょっとうれしそうな顔で振り返った。
「ええ、わたしもそう思います。タクシー運転手時代、乗客から聞いた話だけでも結構な数になります。それにご住職様と檀家回りをしているとき聞いた分と、わたしの耳の奥から聞こえてくる声を加えたら、ものすごい数になると思います」
「なるほど」
ベッキーはしばらく腕組みをしたあと、ふと頭に浮かんだことをそのまま言葉にした。
「この辺りに残る民話のベストテンとか、トップスリーのようなものは、すでに出来上がっているんですよね」
「それが……」
それだけで、そのあとの想像はついた。
「わかりました」ベッキーは、事務的な声でつづけた。
「音声から文字を起こす方法、断片的な言葉を繋げるソフト、そのようなものを考えてみます」
これでこの日の会話は、すべて終了。
ベッキーがそう思ったとき「あ、そうだ」といったシロワンミ氏の口から、とんでもないセリフが飛び出した。
「ベストスリーとは関係ありませんが、このあたりには、絶対に足を踏み入れてはならない場所が、二カ所あります」




