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『シロワンミ氏が思い出したもの』 管理人側視点

 期待していたせりふではなかったが、失望感はなかった。

 というのも、反射的に、こんなふうに解釈したからだ。

 シロワンミ氏は、間違いなく一般常識を超えた能力の持ち主。いまのお爺さんの返事の部分は、それをぼかすための彼の創作。

 わたしの耳の奥から、人の声が聞こえてくるんです。

 シロワンミ氏は、そのような非常識極まりない話を、初対面の人間の前で堂々と口にできる人間。

 しかもその相手というのは、この地域における重鎮的存在のバーシュウレインの三人。

 下手をすれば、自分が積み上げてきたすべてのものを失ってしまう危険性があるというのにだ。

 わたしの秘めた能力は、話の流れから、想像してみてください。

 シロワンミ氏は、言外にそういっているのだろう。

 そんなふうに理解したあとの彼の横顔は、それまでとは違ったものに見えた。

 一見、チョイ悪おやじ風。しかし彼の内部には、豊かな森や、静かに流れる川のようなものが隠れている。そのような確信めいたものが芽生えてきた。

 いったい彼は、どのような人生を送ってきたのだろう。そしてこの先、どのような人生を送るのだろう。

 僕が彼のタクシーに乗ったときの記憶が抜け落ちているといっていたが、そのことに、この僕も関わっていたのだろうか。

「あっ、いけない。もうこんな時間」腕時計に目を落としたシロワンミ氏が、焦ったような声でつづけた。

「要するに、今わたしの耳の奥から聞こえてくる声は、小学生の頃に聞いた昔話なんです」

改めてシロワンミ氏との出会いの意味を考えていた僕は、その大部分を聞き逃してしまった。でもそんな僕に代わって、カモシンが念を押すかたちで訊いてくれた。

「つまり、その頃ご住職様から聞いた昔話が、今になって、ご自分の耳の奥から、音声としてよみがえってくるわけですね」

「いえ」彼は早口でいった。「ご住職様ではありません。村人たちの声です。お礼の代わりなんです。なにしろ当時のこの辺りは、へんぴな農村地帯、しかも終戦直後の物不足時代でしたから……」

 話が飛び始めたところで、カモシンが質問した。

「お礼というのは、何に対するお礼なんですか?」

「願い事です、村人たち個人個人の願い事。その願いが叶った人は、お礼として自分が知っている昔話をわたしの前で話すという約束事ができたんです。でもそれを決めたのも、願いを叶えたのも、ご住職様。わたしの関与は一切ありません。その点は誤解のないように」

「あのう」カモシンが穏やかな声で割って入った。

「そのあたりの話も含めて、もっと詳しく教えて頂けませんか? 明日からでも」

 シロワンミ氏は腑に落ちないといった表情で、目をしばたいた。

「明日から?」

「ええ」カモシンは、にこやかな笑みを浮かべた。

「でも、シロワンミさんが、了承してくださればの話ですが」

「わ、わたしの方はかまいません。光栄です」一瞬笑顔を見せたシロワンミ氏だったが、すぐに表情は曇った。

「でも、残念ながら、皆さんの期待に応えるだけの情報は、持ち合わせていません……」

「あら、そうかしら」カモシンは笑顔のまま身を乗り出した。

「この町の発展過程を身をもって体験されてきたんじゃなかったんですか? そのあたりの情報量は物凄いはずですよ」

「ええ、まあ」シロワンミ氏は小さな声でいった。

「その点についてなら、少々の自信はあります。なにしろ、ここで生まれ育ったわけですから」

 それから彼は、次第に混み始めた店内を見回した。

「ちなみに、いま我々がいるこのレストランは、三十年ほど前までは小鳥や昆虫が飛び交う雑木林でした。季節ごとに、山菜目当ての人々が、近隣から押しかけてきたものです。ここで捕らえたカブトムシやクワガタを売って、大儲けした人間を何人も知っています」

「さすがだわ」カモシンは、満足そうな笑みを浮かべた。

「でもシロワンミさんの場合は、それだけじゃない。地理にも精通していらっしゃる」

 しかしシロワンミ氏は、ゆるやかに首を振った。

「地理に関しては、誰でも同じです。正確な位置が瞬時にわかるカーナビが、安価で手に入る時代ですからね」そこで口をつぐんだシロワンミ氏は、口元に笑みを浮かべた。

「でも、けもの道のような、役に立たない情報でしたら誰にも負けません。ご住職様の手伝いで山奥の集落へ出かけるときは、めったに人が通らない山道を使っていましたから」

 カモシンが話題を変えたのは、シロワンミ氏がそんなことをいった後だった。

「耳の奥から蘇ってきた昔話は、どれくらいあるのですか?」

 質問の意味がわからなかったのか、彼は困ったような顔をした。

「どれくらいといわれますと?」

カモシンはテーブルのボイスレコーダーに目を落とした。

「そのボイスレコーダーに録音してある言葉です。原稿用紙換算で何枚とか、大体でいいんですが……」

「さあ」肩をすくめたシロワンミ氏は、思い直したような顔でボイスレコーダーを手に取った。

「でも、録音時間ならわかります」

 ボイスレコーダーの電源を入れたシロワンミ氏は、しばらくしてから顔をあげた。

「通常再生なら、326時間。倍速で聴けば、その半分で終わります」

 当然のように訪れた沈黙に、彼は再生モードにしたボイスレコーダーを僕に差し出した。

「耳に当ててみてください」

 聞こえてきたのは、言葉というよりノイズ音。

 耳に神経を集中していくうちに、いくつかの言葉が聞き取れた。

 崖下の墓場、闇夜のさらし首、月夜の井戸汲み、底なし沼のハスの花、紫の魂……

 そのような、あまり聞きたくない言葉が雑音をバックに、途切れ途切れに聞こえてきたが、とても聞き取りづらく、自分の神経がイラついてくるのがわかった。

「いま聞かせてもらっているこれは、音声加工前のものなんですよね?」

 と訊ねると、シロワンミ氏は笑いながら答えた。

「ええ、そうです。聞こえてきたものを、その場で吹き込んだやつです。大体において、食欲をそそるような言葉しか聞こえてきません。音声の方ですが、最初から喋りっぱなしの、録りっぱなしでいくつもりでした」

 記録として残すのなら、性能の良い外付けマイクに変えなきゃダメでしょ。

 でも僕は何も言わずに、ボイスレコーダーをカモシンに手渡した。

 バーシュウレインの三人の感想も、僕と似たようなものだったらしく、カモシンの質問が出てくるまで結構な時間がかかった。

「これを、どのようにして書物になさるつもりなんですか?」

 シロワンミ氏は、少し間を置いてから口を開いた。

「もうひとつのデーターと組み合わせれば、何とかなると思うんですが……」

「といわれますと?」

 カモシンが怪訝そうな声でいうと、彼は照れたような表情で自分の頭を指さした。

「ここです」

 もう一つのデーターというのは、タクシー運転手をはじめた頃に、乗客から聞いた昔話のことだった。

「その頃までは、わたし以外の人間に昔話をするなという決まりごとのようなものが残っていたんです。でも、ほとんど覚えていません。タクシーの運転手は、お客様の命を預かる商売です。運転に集中している分、どうしても耳の方はおろそかになるんです。ですから、記憶に残っている話も、断片的なものばかり、というか、うっすらとしか残っていないんです」

 カモシンは、ちょっと残念そうな表情を見せながら、次の質問をした。

「耳の奥から聞こえてくるのは、すべて男性の声とおっしゃっていましたが、タクシーの運転中に話を聞かせてくれた方も、そうなんですか?」

「そんなことはありません。女性もいましたよ」

 と、なぜかそこでカモシンの目が輝いた。

「女性?」

 そのまま天井付近を見上げて黙り込んだカモシンに、シロワンミ氏が訊いた。

「どうかしたんですか?」

 カモシンは、ゆっくりとした動きでシロワンミ氏に顔を向けると、思い切ったような声でいった。

「声だけオンナという話を、お聞きになったことはありませんか?」

 それを聞いたベッキーとガウチが、互いの視線を交わすのが目に入った。

「声だけオンナですか?」

 シロワンミ氏は、しばらく考えてからしずかに首を振った。

「そのような話は、一度も」

 カモシンが何を聞きたいのか、僕にはわかった。『目を押せ』彼女だけに聞こえてきたという意味不明な言葉。

 しかしどうやらそれを口にする様子はなさそうだった。そんなことをいうと笑われると思ったからだろう。

 案の定、カモシンは気持ちを切り替えるように、自分の腕時計をちらりと見てから、視線をシロワンミ氏に戻した。

「先ほどもいいましたが、シロワンミさんのお話を、もっともっと聞きたいと思っています。ご都合はいかがでしょうか」

 姿勢を正したシロワンミ氏は、はっきりとした喜びの表情を浮かべた。

「つまらない話でよかったら、いくらでも。もちろん明日からでも結構です」それから僕の方に体を向けた。

「ちぎれ雲さんのご商売は、聞き屋でしたよね」

 いきなりで、びっくりした。それに僕には自分が聞き屋だという自覚なんてなかった。

「ええ、まあ」

 あやふやな返事を返したのに、シロワンミ氏は真面目な顔でいった。

「今、ふと思ったんです。ちぎれ雲さんに話を聞いていただければ、忘れていたものを思い出すかもしれないって」

 真正面から見つめられてそういわれても、実績がないだけに何もいえない。

「だといいですね」

 とお茶を濁したとき、シロワンミ氏が「あ、そうだ」といった。

「声だけオンナと関係があるのかどうかわかりませんが、このあたりでは、空から女の人の声が聞こえてくることがあるらしいんです」

 帰る準備をしようとしていた、バーシュウレインの三人の動きが、ぴたりと止まった。


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