『シロワンミ氏と仏壇のイチジク』
「誤解を与えていたかもしれませんので、改めて申し上げます。民話収集を思い立ったのは「認めてやれば、亡霊は消える」を聞いた瞬間ではありません。ご住職様の声で思い出したことがあったからです。
そんな前置きで始まったシロワンミ氏の話は、次のようなものだった。
それは小学五年の初夏の日曜日でした。
いつものように、ひとり裏山の雑木林で遊んでいると、突然大きな声がしました。
「おい、そこの坊主」
みると、菩提寺のご住職様でした。
「なんだ、お前か」
目が合った瞬間、ご住職様は戸惑ったような顔をみせられましたが、すぐに元の表情に戻ると「何をしておるんだ、こんなところで」といわれました。
雑木林の中ほどにあるその場所は、わたしだけの遊び場でした。
そこにいるときのわたしは、ターザンにも、忍者にも、植物学者にも、昆虫学者にもなることができました。
「別に何もしていません」
と答えたのは、その日の目的が、ヤマモモの実の採取だったからです。周りの木の枝に荒縄を巻きつけてはいませんでしたし、木刀も虫眼鏡も持参していなかったからです。
「ほら」何も持っていないことを見せるために、両手をひらひら振ると、なぜかご住職様は、驚いたように目を見開いたあと、探るような声でおっしゃいました。
「このあたりに、誰かいただろう」
「いえ」
即答したのは、それに間違いなかったからです。
「ほんとうか?」
ご住職様は、背伸びするような格好であたりを見回した後、独り言のように「手ぶらで戻るわけにはいかないからなぁ」とつぶやきながら私に顔を向けました。
「暇か?」
「はい」
と答えると、ご住職様は気乗りしないような感じで、パンパンと両手を打ち鳴らした後「じゃあ、ついてこい」といわれました。
けわしい山道を十五分ほど登っていくと、掘っ立て小屋のようなものが見えてきました。中にいたのは、やせ細ったお爺さんひとり。薄っぺらな布団の中にあおむけになって、落ちくぼんだ鉛色の目を天井に向けていました。
「ほら、連れてきたぞ」
ご住職様は、年上の人に対しても、そのようなぶっきらぼうな物言いをなさる方でしたが、相手側もそれには慣れているらしく、やっと聞こえるような声で、
「あの仏壇のイチジクを、その子に食べさせてくれ」
といっただけでした。
「あいよ」
明るい声でそういわれたご住職様の表情が急に曇りました。
「なんだこれは」
不機嫌になられた理由がわかりました。仏壇に供えられたイチジクが原形を留めていなかったからです。それはまるで厚手の根昆布のように見えました。
「こんなものを食わせたら、この子が腹を壊す。下手すりゃ死ぬぞ。何を考えているんだ」
ご住職様は、本当に怒った声でいいました。でも、お爺さんは、わたしを拝むように両手を合わせて懇願しました。
「一生のお願いだ、食べてくれ」
その言葉がなくても、わたしはそのイチジクを食べていたと思います。というのも、その頃のおふくろの趣味が、自分の家でドライフルーツを作ることだったからです。
「この子をひと月ほど貸して欲しいのだが」
前触れもなく我が家を訪れたご住職様が、そんなことをいい出したのは、明日から夏休みという日でした。
当時の我が家にとって、それは渡りに船。
というのも、かねてから体の不調を訴えていたおふくろが、そのおかげで二週間ほどの入院生活を送ることができたからです。
後から考えてみると、親子二人暮らしのわたしたちの実情を知った住職様のあたたかい心遣いだったような気がします。
まあ、それはとにかく、わたしはその日からご住職様の家で生活することになりました。
「お前に、腐れイチジクを食わせたあの爺さんな」
その日の夜、ご住職様は嬉しそうな声で報告してくださいました。
「次の日から、みるみる元気になって、また炭焼きの仕事に精を出しているぞ。これも全部おまえのおかげだ。よかったよかった」
瀕死状態だったお爺さんが元気になったのは嬉しいことでした。でもそのことと、わたしの関係はさっぱりわかりません。
わたしは学校の成績は良くありませんでしたが、授業中に先生がいった言葉のいくつかは、頭のどこかに刻み込まれていました。
「わからないことがあったら、すぐに訊きなさい。調べなさい」小学一年の担任の口癖もその中のひとつでした。
「僕のおかげじゃない。僕は何もしていない」まずそういいました。
「イチジクを持って行ったのが僕で、お爺さんがそのイチジクを食べて元気になったのならわかるけど、お爺さんは何も食べなかった。というより、あの日のお爺さんは、物を食べるだけの体力もなかったみたいだった。何か変」
わたしの言葉にご住職様は、そうだ、そうだ、その通りといったような顔で大きくうなずかれました。でもそのあとのセリフは、わたしが予想していたようなものではありませんでした。
「そこよ、そこ、そこ。そこいらあたりのことが、まったく理解できないんだ。なんであんなに元気になったんだろう。まだまだ修行が足らんということだな、このわしは」
その言葉に、ショックを受けました。
というのも、当時のわたしにとってご住職様は、神様のような存在でしたから。
この世のことはおろか、死後の世界までも知り尽くした方。それがご住職様に対するイメージのすべてでした。そのような方が小学生のわたしに向かって、自分の至らなさを告白するなんて思ってもいなかったからです。
「ほんとにわからないの? お爺さんが元気になった理由」
おそるおそる訊くと、ご住職様はこんなことをおっしゃいました。
「わからないのは、それだけじゃない。あの爺さんには予知能力があるみたいなんだ」
予知能力の意味は知っていました。たぶん雑誌か漫画で見たのでしょう。でも、それを人の口から、それも、ご住職様から直接聞くとは思ってもいませんでした。
「予知能力って、何のことなの?」
そう訊ねたのは、聞き間違えた恐れがあったからです。
「それはな」ご住職様は、わたしに顔をちかづけました。
「物事が起きる前に、それを知る能力だよ」
わたしが思っていたものと同じでした。
「あのお爺さんって、仙人なの?」
つい、そんなことを口走ってしまったわたしに、ご住職様は笑いながらこういいました。「いや、飲んだくれの、ろくでなし」
そこで急に真顔になったご住職様は、腕組みしながら天井を見上げました。
「でも、あの日に限っていえば、あの爺さんにその能力はあった」
独り言のようにそういったあと、しばらくしてからご住職様はわたしに顔を向けました。
「お前が、あの場所を選んだ理由を教えてくれ」
いきなりだったので、最初は何をいわれたのかわかりませんでした。でもお爺さんの話とつながる場所といえばひとつしかありません。
わたしをじっと見つめるご住職様の目に、ちょっとした違和感を覚えましたが、正直に話しました。
「深い理由はありません。小さいころからあそこで遊んでいるからです。近くを小川が流れているし、小さな池もある。ドングリとか、椎の実とか、アケビとか、それから栗の実とか、カマキリとか、セミとか、トンボとか、」
「わかった、わかった」
ご住職様が止めなければ、そこで発見した木の実、昆虫、鳥だけでなく、そこで体験した自然現象などのすべてを並べていたかもしれません。
「もういい、もういい」
笑いながらそういったご住職様は、急に声をひそめました。
「あの日、あの近くで、なにか光るものを見なかったか?」
今もそうですが、わたしにとって、光るものといえば太陽と星の二つだけなのです。でも、ご住職様の言い方からすると、それが別のものを指しているのは明らかでした。
「いえ」
即座に答えると、ご住職様はがっかりしたように肩を落とされました。
何か悪いことをしてしまったような気がしたわたしは、こんな質問をしました。
「光るものって、大判とか小判のことなんだよね」
場つなぎの冗談をいったわけではありません。大の大人ががっかりするもので連想できたのが、それしかなかったからです。
「実をいうとな」ご住職様は、何か重大発表するような声でいわれました。
「あの日、爺さんがいったんだ。この近くに神様がいらっしゃるから、ここまで連れて来て欲しい。そうすれば、俺の寿命が延びるんだってな。
もちろんわしは、大笑い。そしてこんな意地悪をいってやったんだ。
仏さまに仕えているわしも、神様を見たことがない。もしよかったら、神様を見分ける方法を教えて欲しいってな。
するとあの爺さん、こんなことを抜かしやがった。
それは俺にもわからない。後光が射しているかもしれない。わざと汚れた格好をなされているかもしれない。それはとにかく、すぐ行ってくれ。でも、くれぐれも失礼がないように」
そこまで話したご住職様が急に黙り込んでしまったので、わたしは思いついたことをそのまま口にしました。
「で、神様に会うことができたの?」
するとその言葉を待っていたように、ご住職様はわたしの顔を覗き込みながら、こんなことをいわれたのです。
「お前が神様だとすると、辻褄が合うんだけどな」
辻褄の意味は、なんとなく分かりました。でも、何に対して辻褄が合うのかとなると、さっぱりでした。そのことを教えて欲しいと頼むと、ご住職様は快く応じてくださいました。
「あの爺さんは、命の灯が消える寸前に、神様に願い事をしたらしい。神様お願いです。もうすこし私を生かしてください。自分が生きていた証を残すまでの間だけでいいんです。すると、枕元に黄金色の光が射すと同時に、どこからともなく神々しい声が聞こえてきたらしい」
「わたしを呼んだのは、お前か」
驚きながらも爺さんは即答した。
「なんでも差し上げます。願いをきいてください」
するとしばらくして声がした。
「仏壇のイチジクを食べさせてくれるかな」
「とうぞ、どうぞ、ご遠慮なく」
これで命が延びた。安心した爺さんの耳に、信じられない言葉が入ってきた。
「実をいうと、いまわたしの身体は別の場所にある。わたしの身体をここまで運んできてほしい」
からかわれていると思ったが、爺さんは冷静な声で、現状を説明した。
「見ての通り、わたしは動くことができません」
すると、能天気な言葉が返ってきた。
「では、もうすぐここを訪れる人物に頼むがよい」
誰も近寄らないこんな山奥のオンボロ家にやってくるような人物なんて思い当たらなかったが、爺さんは一応訊いてみた。
「その人物が来たときのために教えてください。身体がある別の場所は、どのあたりなんですか?」
「すぐ近く」
爺さんはさらに訊いた。
「間違えるといけません。どのようなお姿をなされているのか教えてください」
すこしの間を置いて、答えが返ってきた。
「そのような心配は無用。その人物が連れてくるのが、わたしなのだ」
小学生だったわたしにも、話の流れから、ご住職様が何をおっしゃりたいのかなんとなく理解できました。
わたしは、ご住職様を見据えて、自分の頭に浮かんだことを声にしました。
「まさかこの僕を、神様に仕立てて、なにかしようと思っているんじゃないでしょうね」
するとご住職様は、意外なことを口になされました。
「みんなの幸せのために、そういうことにしてみないか?」
もちろんわたしは断りました。いずれ真相が暴かれる。子どもながらにわかったからです。
「そりゃそうだよな」ご住職様は、嬉しそうな顔でいわれました。
「立場が違えば、わしだって、お前と同じことをいう」
そこで話が終わったと思いましたが、ご住職様は「ひとつ頼みがある」とおっしゃいました。
「すまんが、両手をひらひらさせてみてくれ」
その言葉の意図はわかりませんでしたが、リクエストに応じました。断る理由を探すより、やってみせた方が早い思ったことと、ご住職様の笑顔を見たかったからです。
でもご住職様は、十秒ほど手の動きを眺めた後、不満げな顔で、このようなことをつぶやかれただけでした。
「おかしいなぁ。あの日の両手は、キラキラ輝いているように見えたんだけどなぁ」




