表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
115/129

『良性の副作用』 管理人側視点

「あ、すみません。その話、ほとんどしていませんでしたね」

 苦笑いを浮かべたシロワンミ氏が、そのあと「おかげさまで、頭の中まですっきりしてきたようです」と付け加えた時、ふと思った。

 彼に起きたという血流の改善。それは、他の器官にも作用を及ぼしたんじゃないだろうか。

 僕の予想は珍しく当たった。カモシンの問いかけに対する受け答えが、とても聞きやすいものに変化していたのだ。

「個人タクシーの仕事は、いつまでだったのですか?」

「その日までです」

 彼は、はっきりとした声でいった。しかしカモシンは、考えるように眉をひそめた。

「その日? とおっしゃいますと?」

 シロワンミ氏は、落ち着いた声で答えた。

「わたしのタクシー人生は、自分の記憶の一部が、欠落していることに気づいた日で終わりました」

 とたんに、僕の胸がちくりと痛んだ。

 たぶんそれは、彼の仕事を奪ったのは、この僕かもしれないという自責の念。もちろん自覚はない。でも彼の記憶の欠落には、この僕も何らかの形で関与していたのだろうな、といったような漠然としたものはあった。

 そのあたりの事情を知っているからなのか、カモシンの次の質問は、僕が知りたいことに関するものだった。

「収入が途絶えることに対する不安とか、ご家族からの反対はなかったのですか?」

「いえ」シロワンミ氏は、なぜか笑顔を浮かべた。

「というのは、その日が最後の仕事になることは、半年前に決まっていたからです」

 何だよ、おい。

 ほっとした反動で、自分の早とちりを忘れてしまった僕は、心の中で毒づいた。

 それならそうと、早くいってくださいな、シロワンミさん。

「ご存じだと思いますが、タクシー業界は長年不況の荒波の中にあります。走れど走れど、生活は楽にならず。それが廃業を決めた最大の理由です。でも、高齢者運転による交通事故の多発も要因のひとつでした」

 といいながら、ズボンの後ろポケットから取り出したのは、スマホだった。

「当初は、個人タクシーの廃業しか考えていませんでした。でも一部とはいえ、記憶が飛んだのを機会に、自家用車の運転もやめようと決心したわけです。運転免許証の返納は、気が変わらないうちにと、翌日。ちなみに、今のわたしは、これを足代わりに使っています」

 遠慮がちに僕たちに向けられたスマホ画面にあったのは、電動アシスト自転車に乗った彼の写真。

 シロワンミ氏は笑いながら、肩口のスマホを覗き込んだ。

「走る交通信号と呼ばれているです。このわたしは」

 言われてみれば、確かにその通り。

 赤いジャージ。黄色のヘルメット。青い自転車。肩にかけた反射タスキは、薄緑の蛍光色。

「笑われるのは平気です。ここまでしないと、安心して民話収集はできませんからね」

「ちょっと、いいですか?」カモシンが片手をあげた。

「いま、民話収集といわれましたか?」

「ええ」シロワンミ氏がキョトンとした表情を浮かべると、カモシンはすこし怒ったような声をだした。

「人が笑うなどという次元の話じゃないと思います。危険すぎます、この方式。何を考えているんですか?」

 わたし、わけがわかりません……

 シロワンミ氏がそんな表情を浮かべると、カモシンは身を乗り出した。

「だって、免許証を見ながら車が行き交う公道を走るわけでしょう? どうして、わざわざそのような無謀なことをなさるんですか? いくら自分の耳の奥から聞こえてくるといっても、静かなところの方が、より鮮明に聞こえてくるはずです」

 僕でも思いつく程度の話に、シロワンミ氏は、あ、しまった、というような表情を浮かべた。

 カモシンの指摘で、自分のバカさ加減に気づいたのかと思ったが、そうではなかった。

「そういえば、まだ話していませんでしたよね。声が聞こえてくる条件が変わったことを」

「なんですか、その条件というのは」

「運転免許証の返納手続きを済ませた直後から、それまで聞こえてきた声がまったく聞こえなくなったんです」

 一瞬僕たちの動作が止まったのを感じ取ったのか、彼は柔らかな笑みを浮かべて「でも、ご安心ください」といった。

「その一週間ほど後に買った、この自転車のペダルを踏んでいるとき、それは復活しましたから」

「あのう」カモシンが、やんわりと割り込んだ。

「でしたら、スタンドを立てて、空回し。それで解決するのでは……」

「残念ながら」彼は小さく首を振った。

「声が聞こえてくるのは、ある程度のスピードで走っているときだけなんです」

「…………」

 返事に窮したカモシンが僕たちに顔を向けようとしたところで、シロワンミ氏は、ふたたびズボンの後ろポケットに手を伸ばした。

「ですから、自転車に乗るとき、いつもこれを持ち歩いています」

 彼がテーブルに置いたのは、ボイスレコーダー。

 いっせいに、それを覗き込む僕たちから視線を外したシロワンミ氏は、客数を数えるような目で店内を見回したあと、こんな提案をもちかけてきた。

「残された人生のすべてを民話収集に捧げようと決めるまでの経緯を、聞いてもらえませんでしょうか?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ