6話 王太子宮での活躍、不穏な兆し
夕暮れの公園で胸に灯った恋心は、日増しにその熱量を増していた。
ディラン殿下に微笑みかけられるだけで、私は直視できずに視線が泳いでしまう。
挨拶で声をかけられれば、心臓はドキドキと高鳴り始める。
(ど、どうしちゃったの私……。これでは、いつか私の気持ちが殿下に伝わってしまうわ……!)
偽りの婚約者だけれども、本当は彼の特別になりたい。
今までになかった、自分自身の欲求まで顔をのぞかせ始めた。
(私にできることで、少しでも殿下のお役に立てないかしら……)
ただ守られているのではなく、彼の力になりたい。
その思いを胸に、意を決しながらディラン殿下の執務室の扉を叩いた。
室内には、書類に囲まれた殿下と、慌ただしく駆け回る側近のセバスさんの姿があった。
「エレナ? どうしたんだい?」
「あの、ディラン殿下、セバス様。もしよろしければ……私に何かお手伝いできる仕事はございませんか? 書類の整理でも、お茶の準備でも、何でもいたします」
私が申し出ると、セバスさんが申し訳なさそうに眉を下げた。
「お気持ちは大変嬉しいのですが、エレナ様はお客様です。それに今、扱っているのは煩雑な書類の山でして……会計専門の文官でも頭を抱える代物なのです」
「……差し支えなければ、その書類を少しだけ拝見してもよろしいでしょうか?」
セバスさんは戸惑いながらも、机にあった書類を私に手渡してくれた。
私は書類を受け取り、そこに並ぶ無数の数字へと視線をすべらせた。
(…………あ)
ページをめくった瞬間、不自然な数字のズレが目の中に入る。
何年もの間、実家で書類をたった一人で作り続けたからだろうか。
その違和感が、はっきりと浮かび上がった。
「あの……セバス様。このページなのですが……」
「ええ? 何か不備でもございましたか?」
「はい。ここです。資材費が二重に計上されています。その帳尻を合わせるためなのでしょうか、事業費がニページめと十ページ目で差異があります」
私が指で数字を辿りながら指摘すると、執務室の中に沈黙が落ちた。
セバスさんの顔からは、すっかり血の気が引いていた。
「な……なんということだ……! 本当だ……! 重大な計算ミスを……エレナ様は、すぐに見抜かれたというのですか!?」
「ええと……はい。実家でいつもこのような複雑な計算ばかりさせられておりましたので、数字の歪みが感覚で分かってしまうのです」
セバスさんが呆然としていると、手元の書類から顔を上げたディラン殿下が、サファイアの瞳を感服したように輝かせた。
「素晴らしいな、エレナ。君のその能力は、国家級の天才的な才能だ」
「て、天才だなんてそんな……! 私はただ、計算が少し得意なだけですから……!」
両手をふって恐縮する私を見て、ディラン殿下はふっと微笑んだ。
「自分を過小評価してはいけないよ。君のその才覚が、私たちを、そしてこの国を助けてくれたんだ。心から感謝するよ、エレナ」
「ディラン殿下……」
日々つちかった能力が、大好きな殿下の役に立ったのだと思うと、嬉しさで胸がいっぱいになった。
執務室での手伝いを終え、温かな達成感に包まれながら私室へ戻った時のことだった。
「あ……エレナ様、お戻りになられましたか」
侍女長のマリアさんが、少し険しい表情で私を出迎えた。
その手に、一枚の白色の封筒が握られている。
「マリアさん、どうかされましたか?」
「実は……先ほど、王宮の衛兵経由で、エレナ様宛てに手紙が届きましたの。差出人は……カール侯爵令息です」
「カール様から……?」
不吉な予感に包まれながら受け取った手紙を開く。
そこには殴り書きのような文字で、短い文章がつづられていた。
『エレナ。お前と至急話さねばならないことがある。今夜、王都郊外にある我が家の別邸へ一人で来い』
手紙を読み終えた私の手は、突然の誘いに困惑で揺れていた。
「エレナ様、どのような内容ですの? ……ディラン殿下に報告いたしましょうか?」
心配そうに覗き込むマリアさんに、私は不安のままうなずきかけた。
(……待って、これは私事……。ディラン殿下を巻き込んではいけないわ)
ディラン殿下は今、国家の重責を背負い、とてもお忙しくされている。
私を婚約者として匿って、温かな居場所まで与えてくださった。
これ以上、自身のしがらみで殿下にご迷惑をおかけするわけにはいかない。
(何より、これは私の問題だ……)
あの夜会で絶ち切ったつもりだけれど、私はまだ、カールという過去に直接引導を渡せていない。
手紙を懐にしまいながら、何でもないように笑顔を作る。
「……少し知り合いとお話ししてきます。すぐに戻りますので、殿下には報告しなくて大丈夫です」
「えっ、ですがエレナ様……!」
私はマリアさんの制止を振り切り、念のため護身用のナイフを忍ばせて一人で王太子宮を後にした。





