5話 二人だけのお出かけ
王太子宮にやってきてから、早くも一週間ほどが過ぎた。
温かな陽光が差し込む部屋で目覚め、美味しい食事をいただく。
親切な侍女マリアさんたちとお喋りをしながら過ごす。
時折、ディラン殿下の執務室でちょっとした帳簿の整理をお手伝いすると、殿下も側近のハンスさんも大袈裟なほどに褒めてくださる。
(誰かに頼られて感謝される……。何だかとてもこそばゆいわ……)
そんなある日の朝、ディラン殿下が訪ねてこられた。
いつもの王太子としての礼装ではなく、驚いたことにシンプルな紺色のジャケットという質素な装いだ。
「おはよう、エレナ。体調はどうだい?」
「おはようございます、殿下。……あの、そのお召し物は?」
「今日は君をお忍びで街へ連れ出そうと思ってね。ずっと王太子宮の中に閉じこもっていては退屈だろう?」
「えっ……お忍びで、街へ……!?」
一国の王太子が、街へ出かけるなどあり得ないことだ。
驚いて固まる私を、ディラン殿下はどこか楽しげに見つめる。
「身分を隠して王都の市井を視察するんだ。君さえ良ければ、一緒に行かないかい? もちろん、君の着るものも用意してあるよ」
ディラン殿下が指を鳴らすと同時にマリアさんが運んできたのは、素朴な薄水色のワンピースだった。
「いいのですか……?」
「もちろんだ。無理強いするつもりはないが……どうだろうか?」
「行きたいです! 伯爵家にいる頃も、街へ買い物に行くのが唯一の息抜きだったんです……!」
「そうか。私も君と街に繰り出せるのは楽しみだ。準備が整ったら、早速出発しよう」
ディランの殿下が部屋の外に出ると、私は侍女たちの手を借りて急いで身支度を整た。
動きやすい服に身を包むと、なんだか冒険に出かけるような高揚感を覚えた。
裏門からシンプルな馬車に乗り込み、王宮を離れてしばらく。
馬車が止まったのは、王都の賑やかな市場近くだった。
「わあ……」
馬車を降りると、果物の円熟した香り、パンが焼かれる匂い、商いの掛け声。
色とりどりの知覚が、全身を心地よく揺さぶる。
「エレナ。この辺りに来るのは初めてかい?」
「はい……。とっても活気がある街ですね」
「そうだろう? ここは王都で一番人が集まる商業区だ。さあ、こちらへ。はぐれないようにね」
ディラン殿下は『ディノ』という偽名を使い、ごく自然に私の手を包み込んでエスコートしてくださった。
その手は胸をくすぐるほどに温かく、私は顔が熱くなるのを必死で誤魔化しながら隣を歩いた。
「おお、ディノさん!」
突然、頑固そうな壮年の職人らしき人が、殿下の姿を見るなりと親しげに駆け寄ってきた。
「ディノさん、あんたの助言通りに水路を回収したら流れが良くなったよ! おかげでここら一帯の衛生環境が一気に改善したぜ!」
「それは良かった。他に困っていることはないですか? もし修繕資材が足りないなら、別の地区から調達していきますよ」
「本当かい!? あんたは若いのに顔が広いねえ」
職人たちに肩を叩かれながら、差し出された図面のような書類を覗き込むディラン殿下。
(すごい……一国の王太子でもあるのに、平民と同じ目線でお話されている……)
感嘆の思いでそのやり取りを見持っていたが、書類の端に書かれた文字へ目が留まる。
私はそれがどうしても気になって、そっとディラン殿下の袖を引いた。
「あの……ディ、ノさん。ここに書かれている資材なのですが、東地区の資材で安くまとめ売りをされています。そちらで資材を工面すれば、予算を少し抑えられます。そうすれば、水路の修繕費用に回せるのではないでしょうか?」
「……!」
殿下と親方が、驚いたように目を瞬かせる。
殿下は図面と私の顔を交互に見比べると、感心したように口元を手で覆った。
「すごいな、エレナ……。一瞬書類を見ただけで、資材の調達方法を思いついたのかい?」
「おいおいディノさん、あんたの連れのお嬢ちゃんも優秀だな! ありがてえや!」
親方に頭を下げられ、私は照れくささに顔をうつむかせた。
殿下は誇らしげに目を細め、私の頭を撫でてくださった。
「さすがはエレナだ。君を連れてきて本当に良かった」
「そ、そんな……。私ではなくても、誰でも思いつくことです」
「そんなことはない。エレナが今まで、さまざまな面で伯爵家を支えてきた成果だ。誰にも真似できない、君だけの素晴らしい才能だよ」
その言葉の響きに、心臓が不敬にも高鳴ってしまう。
私は鼓動の音が聞こえないように、彼からなるべく距離をとって胸をおさえ続けた。
その後も、ディラン殿下は慈善事業を行う教会、寄付金を送っていた孤児院にも立ち寄った。
行く先々で、彼は歓迎され、慈愛のこめられた眼差しを向けられる。
(貴族たちの多くは、贅沢や権力のことしか考えていないと思っていた……けれど、このお方は違う)
一国の頂点に立つ尊い身分でありながら、誰よりも人々に寄り添っていた。
その暮らしを良くしようと努力を重ねている。
「楽しかったかい、エレナ? 連れ回したせいで、疲れさせてはいないだろうか?」
夕陽に染まる王都を見下ろせる、小高い丘にある公園のベンチ。
ディラン殿下が、私を労るように問いかけてきた。
「はい……! 殿下が、街の人たちから慕われているのを知ることができて……。本当に良かったです!」
私が正直な想いを口にすると、殿下は少し照れくさそうに、けれど澄んだサファイアの瞳を眼下の街に向けた。
「当たり前のことをしているだけだよ。子どもたちが笑い、大人たちが安心して働ける場所を作る。それが上に立つ者の義務だ」
彼の言葉を聞いて、心のなかで芽生え始めていた気持ちが爆ぜる。
(なんて、尊いお方なの……)
このお方は、お飾りの王太子などではない。
国を愛し、民を愛し、自らの足と目で歩みを進める、心から尊敬できる君主だ。
そんな素晴らしいお方に、私はどうしようもなく心惹かれてしまっている。
(……私、このお方のことが……)
オレンジ色に照らされる殿下の美しい横顔を見つめながら、私は自分の胸の手を当てた。
これは、偽物の婚約者として抱いてはいけない感情だ。
彼にとって私は、鬱陶しい縁談を避けるための都合の良い協力者に過ぎない。
決して本気になってはいけないと、理性が何度も脳を揺らす。
けれど、一度自覚してしまった恋慕は、もう消すことなどできそうにない。
黄昏が忍ぶ丘の上で、私は密かに自分の気持ちを抱きしめたのだった。





