4話 王太子とのお茶会
驚くほどに揺れが少ない王家の馬車が静かに停車した。
扉が開かれると、視界いっぱいに広がったのは広大な王太子宮だった。
庭園にはみずみずしい花々が咲き誇り、噴水の飛沫が太陽の光を煌めかせている。
「さあ、着いたよ。エレナ」
ディラン殿下が先に馬車を降り、私へ向けて手を差し伸べてくださった。
おそるおそる手を取って降り立つと、並んでいた侍女や従者たちが頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ディラン殿下。……そして、ようこそおいでくださいました、エレナ様。私は王太子宮の管理を預かっておりますセバスと申します」
列の先頭に立っていた、品のある初老の執事、セバスが穏やかな笑みを浮かべて私を出迎えてくれる。
社交界で『強欲な悪女』とうとまれ、実家では邪魔者扱いされてきた。
殿下がそんな女を婚約者に選んだと知れたら、きっと冷たい目を向けられるに違いないと思っていた。
けれど、彼らの瞳に宿っていたのは、大切な家族を迎えるかのような、温かな慈しみの光だったのだ。
「部屋の準備は整っております。長旅でお疲れでしょう。エレナ様、まずはどうぞお部屋へ」
「あ、あの……! 私などのために、皆様でお出迎えいただくなんて……!」
慌てて彼らに頭を下げる私を見て、セバスはふっと目元を和ませ、優しく首を振った。
「何を仰いますか。殿下がこれほど大切に連れてこられたお方なのです。私どもにとっても、エレナ様は特別で大切なお客様でございますのよ」
「え……っ」
生まれてこの方、一度も掛けられたことのない言葉が胸に深く突き刺さった。
呆然とする私を、ディラン殿下は優しげな眼差しで見つめる。
「さあ、行こう。君が過ごす部屋だ」
案内されたのは、王太子宮にある広い客室だった。
微細な彫刻が掘られた扉が開かれると、私はその光景に言葉を失った。
見るからにフカフカな天蓋付きの寝台、色鮮やかな絵画や調度品がさりげなく飾られている。
かつて実家で与えられていた、屋根裏部屋の部屋とは、まるで天と地ほどの差があった。
「あの……ディラン殿下……。ここは、特別なお部屋では……? 私のような者が、このようなお部屋を使わせていただくなんてことないですよね……!」
冷や汗をかきながら振り返ると、殿下はくすりと笑った。
「何を言っているんだ。ここは君のために用意させた部屋だよ。気に入ってくれたかい?」
「き、気に入るも何も……。恐れ多すぎて、身震いがいたします……」
「ふふ、なら良かった」
殿下が合図を送ると、侍女たちが手際よくクローゼットの扉を開け放った。
そこに並んでいたのは、色とりどりのドレスだった。
落ち着いた色のシンプルなものから、レースや宝飾が施された高級そうなものまで、どれも触れるのをためらうほどに美しい。
「エレナ様、お召し替えのご用意もできておりますわ。お好みのドレスがあればお申し付けください。私どもがお着付けいたします」
「あ、あの! 私、着替えくらいは自分一人でできますので……!」
「まあまあ、エレナ様ったら」
遠慮する私の手を、侍女の一人がそっと包み込んだ。
「ここでは、どうぞご無理なさらないでくださいね。ここでは頼れる者を頼り、甘えて良いの。私どもは、エレナ様のお力になるためここにいるのですから」
「え……?」
悪女という噂を信じることもなく、嫌な顔一つせず、当たり前のように私に優しくしてくれる。
実家では、温かいお湯など使わせてもらえなかった。
お古のボロボロのドレスを自分で直して着ていた。
「ではマリア、エレナのお着替えを手伝ってあげてくれ。その後、お茶にしよう」
「承知いたしました、殿下」
ディラン殿下が一度部屋を出られた後、侍女のマリアさんたちは手際よく青色のドレスへと着替えさせてくれた。
流行最先端の締め付け感のないドレスは、驚くほど身軽で着心地がよかった。
身支度が整うと、部屋のテラスに置かれたテーブルへ案内される。
そこに待っていたのは、ディラン殿下だった。
殿下は目配せをすると、侍女たちが一礼して部屋を出ていく。
誰もいないテラスに、二人だけの静寂が舞い降りる。
「エレナ、こちらへ」
「はい……」
椅子に腰掛けると、ディラン殿下ご自身が銀のティーポットを手に取った。
私は驚く間もなく、二つ用意されたカップへと紅茶を注ぎ始める。
「で、殿下……!? な、何をなさっているのですか! お茶の用意など、私がいたします……!」
慌てて立ち上がろうとする私を、殿下は優しく制した。
「座っていてくれ。これは君を歓迎するための、私からの茶会だ。今日くらいは私に給仕させてくれ」
「ですが……一国の王太子殿下にそんなことをさせるなんて……」
「私がやりたくてやっているんだ。大人しく待っていてくれ」
紅茶を注ぎ終えると、ディラン殿下は私の前へカップを置いてくださった。
果物を思わせるような、上質な茶葉の香りが立ち上る。
「東方の最高級の茶葉だ。冷めないうちに飲んでくれ」
「ありがたく、いただきます……」
私は緊張に震える手でカップを持ち上げ、火傷しないようにそっと唇をつけた。
「ん……!」
豊かな甘み、上品だけれど落ち着く香りが体に染み込んでいく。
「美味しい……です……。紅茶が、こんなに美味しいものだとは知りませんでした……」
「それは良かった。君の好みに合うか少し心配だったんだ」
ディラン殿下は向かいの席に座り、どこまでも穏やかに頬を緩めている。
そのサファイアの瞳は、吸い込まれそうなほどに優しい光に満ちていた。
「エレナ。君は今まで、本当に良く頑張ってきたね」
「え……?」
「君のいた伯爵家の酷さや、あの侯爵令息が流した無道な噂……私はすべて知っている。君は何も悪くないのに、不当に虐げられ、誰にも正当に評価されず、一人で冷たい場所に耐え続けてきた」
殿下の凛としているのに、柔らかさを感じる声がテラスに響く。
「ここはもう、君を傷つける者も、不当な仕事を押し付ける者もいない。君はここで、好きなだけ美味しいものを食べ、美しいドレスを着て、安心して笑っていればいいんだ」
「で、殿下……っ」
「ここでは我慢もしなくていい。泣きたければ泣き、甘えたければ誰にでも甘えるといい。誰も君を責めたりしないよ」
殿下の言葉が、私の心の奥に固く結ばれていた結び目をほどいていく。
私にとって、この世で最も遠く、一生手に入らないと思っていた幻。
胸に居座り続けた氷壁が、優しい言葉によって音が聞こえるように溶けていく。
「私……私、こんなに……こんなに優しくしていただいたことなんて……一度も、なくて……っ」
目を伏せると、熱い涙がこぼれ出す。
膝の上に落ちる涙。
私は慌てて手で目元を覆い、嗚咽を隠そうと首を振る。
「申し訳、ございません……っ! 私、泣くつもりなんて……っ」
「謝るなと言っただろう?」
椅子がカタリと音を立てた直後、ふわりと温かな腕が私を包み込んだ。
ディラン殿下が、ご自身の大きな手で私の涙で濡れた頬をそっとぬぐってくださった。
「泣いてもいいんだよ、エレナ。それは君が今まで、一人で必死に生きてきた証なんだから」
「で、殿下……っ」
殿下の温かな体に包まれ、私は子供のように声を上げて泣いた。
すべての感情が、涙とともに流れ出していくのを感じていた。
ディラン殿下は、私が泣き止むまで、ずっと私の背中を撫で続けてくださった。
この日、私は生まれて初めて知ったのだ。
人から大切にされるということの、本当の温もりと尊さを。
そして、私を救ってくださった王太子殿下のために、自分にできることなら何でもしたいと、心からそう願ったのだった。





