2話 契約婚約の成立
(……へ?)
まるで愛しい人にかけるような声が降ってきて、私は体も思考も固まってしまった。
サファイアの瞳に映る自分の顔は、想像以上に間抜けな表情だっただろう。
不敬罪に問われる覚悟していた私は、唐突な言葉に瞬きをするしかなかった。
「で、殿下……! 何をおっしゃっていらっしゃるのですか……!? 大変不敬なことをいたしましたことをお詫びします! どうかお許しを……」
「怒ってなんかいないよ。私は本気で、君の気持ちに応えたいと思っているんだ」
ディラン殿下は優しげな笑みを浮かべたまま、無遠慮なまでに顔を近づけてきた。
あまりの美貌の破壊力に、私の心臓が飛び上がる。
「それに、ちょうど頭を痛めていたんだ。毎日のように持ち込まれる気乗りしないお見合いや、しつこい令嬢たちからの縁談攻勢に。そこで、鬱陶しい害虫を追い払うための『婚約者』を探していた」
「婚約者……?」
「そうだ。ちょうど君も、あの侯爵令息から逃げたがっていたろう? 私の婚約者という立場を手に入れれば、あんな男、指一本触れられなくなる」
殿下は美しい唇の口角を上げ、サファイアの瞳を深く光らせた。
「私は鬱陶しい縁談を回避でき、君の評価を貶める男と、冷遇する実家から身を守れる。……利害は一致していると思うが、どうだい?」
あまりにも私に都合が良すぎる。
けれど、ここで殿下の提案を断れば、私を待っているのは不敬罪での処分か、カールの愛妾としての惨めな未来だけだ。
最初から、私に選べる選択肢なんて存在しない。
「……こんな私でよろしければ、謹んでお受けいたします。ディラン殿下……」
「よし、契約成立だ」
私が深く頭を下げると、殿下は満足そうに目を細めた。
そして、私の細い手を滑らかな動作で取り上げると、そのまま指先に軽く唇を落とした。
「えっ……!?」
「では、さっそく最初の『演技』といこうか。なに、簡単なことさ」
夜会にひらめく、漆黒の燕尾服。
戸惑う私の手を引いたまま、ディラン殿下は大広間の中央へと堂々と歩き出した。
(え、ちょっと待って……どこへ行くの!?)
視線と光が降り注ぐ会場の中心、華やかなダンスフロアへためらいなく彼は導く。
国一番の最高位である王太子殿下の登場に、ざわめいていた大広間が一瞬で静まり返った。
そして次の瞬間、殿下に手を引かれているのが『悪女』と名高い私だと気づいた貴族たちが驚愕する。
人混みの奥で、カールが信じられないものを見たように顔を蒼白にさせて固まっていた。
「で、殿下……! これでは、まるで……!」
「まるで、何だ?」
「公の場で、私たちが恋人同士だと宣言しているようなものでは……っ!?」
混乱する私をよそに、オーケストラによる優美な音楽が演奏され始める。
ディラン殿下は私の腰にそっと手を添え、流れるようにエスコートを始めた。
「何をいまさら焦っているんだい? 『この人が好きだ』と大声で告白したのは、君の方だろう?」
「っ……! それは、その……!」
「安心してくれ。君は身を任せて、私のそばにいればいい」
逆らえるはずもなく、私は殿下のリードに引き寄せられるようにして踊り始めた。
社交ダンスが苦手な私ですら、まるで空を舞う鳥のように踊れてしまう。
「見ろよ……王太子殿下が、あのフォンテーヌ家の女と……」
「嘘でしょう!? あんな悪女に、殿下が微笑みかけていらっしゃる……!」
周囲から聞こえる悲鳴や、好奇な秘め声。
「私に集中するんだ、エレナ。君の可愛い顔が台無しだよ」
「殿下、意地悪をおっしゃらないでください……! 私、生きた心地がいたしません……!」
「だが、これで君を悪女とさげすむ奴らも、君を見直すんじゃないか?」
耳元でささやかれた言葉に、ハッとして周囲を見渡す。
私の陰口で盛り上がっていた貴婦人たちも、カールさえも、顔を引きつらせている。
(このお方は……私を助けるために、あえてこんな派手な演出を……?)
会ったばかりで、まだ彼のことは何も知らない。
けれどその意外な優しさに胸が熱くなる。
「明日、王宮から迎えの馬車を出す。荷物をまとめておくといい」
「え……!? 王宮、ですか……?」
「当然だろう? 愛する婚約者同士が離れて暮らすなんて不自然だ」
そう言って悪戯っぽく微笑む殿下の瞳に、私は抗うことなんてできそうになかった。
こうして私は、嵐のような夜会を抜け出し、王宮という未知の場所へ足を踏み入れることになったのだった。





