1話 大きな嘘の始まり
高級酒の香り、シャンデリアの煌めき。
さまざまな思惑が漂う王都の夜会。
着飾った貴族たちが談笑する大広間で、私――エレナ・フォンテーヌは、壁際に一人ポツンと佇んでいた。
誰一人として、私に声をかけようとはしない。
それどころか、婦人たちは扇子で口元を隠し、嘲笑を浮かべて通り去っていく。
「見て……フォンテーヌ伯爵家の『悪女』よ」
「実家の財産を傾かせ、何人もの男をたぶらかして、容赦なく捨てたそうよ」
「あんな強欲女、どの家も欲しがらないわ」
クスクスと耳の奥へ届く不快な陰口。
私はぎゅっと手を握りしめ、ただ静かに伏せ目になった。
(――全部、真っ赤な嘘なのに……)
実家のフォンテーヌ伯爵家は、父と継母の度重なる浪費のせいで破産寸前。
複雑な帳簿計算を押し付けられていたのは、長女である私だ。
社交界に出る暇もなく実務に追われ、男性と会話したことすら数えるほどしかない。
それなのに、なぜ私が『強欲な悪女』として社交界中に名を知られているのかは明白だった。
その元凶が、いま、ニヤニヤとした笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。
「やあ、エレナ。相変わらず浮いているな」
声をかけてきたのは、カール侯爵令息。
整った顔立ちをしてはいるけれど、その瞳には隠しきれない傲慢さと、下劣な光が宿っている。
この男こそが、私に無実の噂を流し、社交界から完全に孤立させた張本人だ。
「カール様……」
「どうした、顔色が悪いぞ? まあ、当然か。どこに行っても『悪女』と言われ、婚約の申し込みすら一向に来ないのだからな」
カールはさも同情しているような姿勢を取りながら、不躾なまでに距離を詰めてくる。
私が思わず一歩退くと、逃げ場を塞ぐ壁に当たってしまった。
「だが安心しろ、エレナ。俺は寛大だからな」
カールは指先で、まるで恋人のような仕草で私のあごを持ち上げようとした。
私がとっさに顔を背けると、彼は不機嫌そうに顔をしかめる。
「お前のような行き遅れの悪女でも、俺の『愛妾』にしてやらんこともない。もちろん、うちの侯爵家を、お前が支えることが条件だがな」
あまりの言いぐさに、私の頭が痛む。
(この男……どこまで卑劣なの……!?)
カールは、なぜか私が経理、実務が得意であることに気づいていた。
だからこそ、私を社交界から孤立させて退路を断ち、自分に都合のいい手駒として利用しようとしているのだ。
自分が流した嘘の噂で一人の人生を台無しにしておきながら、恩着せがましく拾ってやると言い放つ。
「……お断りいたします」
喉から絞り出した嫌悪感をにじませた私の拒絶に、カールはおかしそうに笑った。
「拒否権があるとでも思っているのか? お前の実家ももう限界だろう。俺が手を差し伸べなければ、お前は路頭に迷うだけだ。……それに」
カールは私の耳元に嫌なほど顔を近づけ、鼓膜にへばりつくような声でつぶやく。
「『他に好きな男でもいる』とでも言うつもりか? お前みたいな悪女に寄ってくる男など、この国に一人もいるはずがないだろう」
私の中で、長年耐え続けてきた何かが激しく弾け飛んだ。
理不尽な環境、実家からの虐待とでも言えるような冷遇。
そして、目の前で私を虫ケラのように嘲笑うこの男の傲慢さに堪忍袋の尾が切れかけた。
(誰でもいい……! 私をここから連れ出して……!)
怒りと悔しさで染まる中、私の視界の端を、ひとりの人物が横切った。
目立たないように静かに歩く、すらりと背の高い男性。
私は考えるよりも先に、足が動いていた。
「な、おい! エレナ!?」
驚くカールを無視し、私はドレスの裾を持ち上げて全力で駆け出した。
そして、歩いていた見知らぬ青年の前へと躍り出る。
その腕を、両手でガシッと力任せにつかみ取った。
「え……?」
頭上から驚いた男性の声が落ちてくる。
腕をつかまれた青年は不意を突かれて立ち止まり、私を困惑しながら見下ろした。
追いかけてきたカールが、息を荒げながら追いついてくる。
「おい、エレナ! 何をしている!」
私は青年の腕をぎゅっと抱きかかえ、胸を張ってカール様を憎しみをこめてにらみつけた。
体は自身の大胆な行動に震えていたけれど、声だけはハッキリと夜会に響き渡った。
「カール様! 残念ですが、あなたのお誘いはお受けできません!」
「は……!?」
「私、この人が好きなんです! だから、あなたとは結婚なんてできません!」
言葉が口から吐き出された瞬間、周囲に静寂が訪れた。
カールは、私の言ったことが理解できないのか、口をぽかんと開けて固まっている。
「す、好きだと……? その男を……!?」
「ええ、大好きですとも! ですから、二度と私に不快な打診をなさらないでください!」
「く、狂ったか悪女め! どうなっても知らんからな!」
カールは捨て台詞を吐き、急ぎ足で広間の中心へ逃げ帰っていった。
(や……やってしまった……!)
冷や汗が背中をダラダラとつたっていく。
見知らぬ男性の腕を勝手につかみ、ダシに使って『好きだ』と叫ぶなんて、令嬢としてどころか人間として無礼の極みだ。
下手をすれば、悪女以上の悪名が轟いても文句は言えない。
「あ、あの……! 本当に、本当に申し訳ございませんでした……! 私、取り乱してしまって……!」
私は慌てて青年の腕を離し、深く腰を折って頭を下げた。
「お詫びはどのような形でもいたします! お怒りになるのは当然です。でも、事情がありまして……っ」
私が顔を上げた、その時だった。
「……ふふ」
静かな壁際に、心底面白いとでも言うように、この状況を笑うような吐息が漏れた。
窓から月光が差し込み、そこに現れた顔を目にした瞬間、私は息を呑んで凍りついた。
「あ…………!?」
金色の光を溶かし込んだ、見目麗しい金髪。
宝石をそのまま閉じ込めたような、サファイアの瞳。
星々の瞬きさえ霞ませる、美貌を持つその青年。
この国の全女性が憧れる至高の存在、ディラン・シュルツ王太子殿下その人だった。
「ディ、ディラン殿下……!?」
体が凍りついていき、血の気が引いていく。
不敬罪どころの騒ぎではない。
国家反逆レベルの無礼を、私は今まさに働いてしまった。
「……面白いことになったね」
ことの重大さに固まる私の前で、ディラン殿下は美しい唇を吊り上げた。
「エレナ伯爵令嬢。……君のその嘘、乗ってあげてもいいよ?」
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