16話 開けられた扉、光がまばゆく場所
膝をつき、床に散らばった鏡の破片と、潰れた真紅の薔薇の海の中で、彼は肩を震わせる。
「……私は、なんて愚かなことを……」
うわ言のようにこぼれ落ちる声は、ひどく弱々しかった。
「君が心から慕ってくれていたことにも気づかず……自分の身勝手な恐怖だけで、君を踏みにじってしまった。……君の心を、壊しかけてしまった」
彼は手で顔を覆い、窒息しそうなほど苦しげに息を吐き出す。
私をこの部屋に閉じ込めていた狂愛は、そこにはもう欠片も残っていない。
愛されることを知らずに暗闇で泣いていた子供が、自分の犯した過ちに絶望しているだけだった。
「……ディラン殿下……」
私が声をかけようとした時、ディラン殿下は不安定な手つきで上着の懐に手を入れる。
そこから取り出したのは、銀色の鍵。
彼は私の足元にひざまずき、それを鎖の鍵穴に差し入れた。
――カチャ――
小さな解錠の音が、眼下から足に伝わる。
私の足首から重たい金属の枷が外れ、床に散らばるように落ちた。
「え……?」
「……行け、エレナ」
顔を伏せたまま、ディラン殿下は消え入るような声で言った。
「君はもう自由だ。扉の鍵は開いている。この鎖がなければ、君を引き止めるものはもう何もない」
「ディラン殿下……何を……」
「私は君を愛する資格なんてない、ただの化け物だ。……これ以上、私の狂気で君を汚してしまう前に、私の目の届かないところへ逃げてくれ。……早く!」
それは、彼にとって自らの心ごと切り裂くような決断だったはずだ。
誰かに見捨てられることを何よりも恐れ、執着し、罠を張ってまで手に入れた私を、自らの意思で手放す。
足首は、このまま飛び立てそうなほどに軽い。
振り返れば、すぐそこに自由への扉があった。
ここから走り去れば、私は元の世界へと戻ることができる。
けれど、私はこの部屋から動かなかった。
代わりに私が歩み寄ったのは、床にうずくまり、すべてを失ったかのように痛々しい青年の前だ。
「……エレナ?」
消えるはずの足音が自分へ近づいてきたことに驚き、殿下が顔を上げる。
私は彼と同じように床に膝をつく。
彼の小刻みに揺れる手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「何をしている……? 早く逃げろと言ったんだ。私は君を傷つけてしまった。そしてきっとこれからも……」
「ええ。あなたは私を騙し、さまざまな人を巻き込み、この部屋に閉じ込めました。とてもおぞましく、酷い暴挙です」
私はポケットから真っ白なハンカチを取り出し、彼の傷ついた手に優しく巻き付けた。
「ですが……私は逃げません」
「……なぜ……」
「先ほども言ったではありませんか。私は、あなたを捨てて逃げるつもりなどないのだと」
信じられないといった表情の殿下を見すえて、私はどこまでも穏やかに微笑んだ。
「鎖で縛り付けられなくても、私は自分の意思で、ここにいることを選びます。……あなたが今まで一人で抱えてきた悲しみも、身を切るような孤独も、不器用な愛し方も……私がすべて、受け止めます」
「エレ、ナ……。だが、私は……君にふさわしい人間じゃない。また、君を縛り付けようとしてしまうかもしれない……っ」
「その時は、私が何度でも怒って差し上げます。私は、実家で鍛えられた悪女なのですから、少々のことではへこたれません」
私が冗談めかして笑うと、殿下のサファイアの瞳から、頬を伝い涙が流れ落ちた。
「だから……もうお一人で怯えないで。私を信じて、私に甘えてください。私はどこへも行きません。ずっと、あなたの隣にいます」
私がそっと両腕で彼の背中を抱きしめると、殿下は崩れ落ちるように私の肩に顔を埋めた。
「あぁ……っ、エレナ……! エレナ……っ!」
嗚咽を漏らし続ける彼を、私はただ優しく背中を撫で続けた。
彼の中にあった、誰からも愛されないという恐怖が、春の雪のように溶け落ちていく。
私は彼が落ち着くまで、ずっとその体を抱きしめ続けていた。
やがて、泣き疲れたように静かになったディラン殿下が、少しだけ恥ずかしそうに顔を上げた。
「……すまない、エレナ。君のドレスを、涙と血で汚してしまった」
「構いません。こんな薄暗い部屋では、汚れなどよく見えませんよ」
私は立ち上がると、ずっと太陽の光を遮っていた、部屋のカーテンへと手を掛けた。
「ディラン殿下。この部屋は、少し暗すぎます。私たちはもう、こんな檻に引きこもっている必要はないはずです」
手を掲げ、思い切りカーテンを左右に引き開ける。
注ぐように差し込んできた陽光が、一気に部屋の中へ満ちていった。
「まぶしい……」
床に散らばった鏡の破片が光を反射して輝き、真紅の薔薇が鮮やかに浮かび上がる。
光の雨を浴びて、私は振り返り、床に座り込む殿下に向かって手を差し伸べた。
「これからは鎖で繋ぐのではなく……こうして、手を取り合って歩いていきましょう?」
ディラン殿下は、見上げた瞳を、まぶしさのせいか目を細める。
そして、ほころぶような優しく美しい笑みを浮かべた。
「ああ……。君と一緒なら、私はどこへでも行ける」
彼は立ち上がり、私の差し出した手を、愛おしそうに握り返した。
もう足首に、冷たく重い鎖はない。
私たちは手を繋ぎ、部屋の扉を開けて、明るく開かれた王太子宮へと並んで歩き出した。





