15話 崩れ落ちる氷の牙城
セバスさんが部屋を去った後も、私は一人、薄暗いベッドの上で膝を抱えていた。
肌が焼けるほどに冷たい、銀の鎖。
その鎖が、真実を知った今では、彼の叫びのように思えてならなかった。
(彼のことが、怖くなくなったわけじゃない。でも今は……)
胸を支配していたのは、彼に対する途方もない痛惜と、私自身の覚悟だった。
私が彼と正面から向き合わなければ、私たちは一生、この地獄から抜け出せない。
——ガチャリ
手を膝の上で握りしめた直後、鍵の開く音が鳴る。
「エレナ、入るよ」
扉を開けて入ってきたのは、ディラン殿下だった。
その腕には、幽闇な部屋の中でもみずみずしく輝く、真紅の薔薇が抱えられている。
「顔色は……まだ少し青いね。君の心を彩るために、庭師に薔薇の花束を作ってもらったんだ。君はよく、薔薇の花を愛でていただろう?」
殿下はいつも通りの、人形のように美しい微笑みを浮かべてベッドへと歩み寄ってくる。
そして、私の頬へ手を伸ばそうとした。
以前の私なら、声を上げて怯え、目をそらしていただろう。
けれど私は、吸い込まれそうなサファイアの瞳を、ためらうことなく見つめ返した。
「……エレナ?」
殿下の指先が、私の肌へ触れる前に止まる。
私が彼から目を逸らさないことに、かすかな違和感を覚えたようだった。
「……どうしたんだい? そんな目をして私を見るなんて。また逃げ出す算段でも考えているのかい?」
「いいえ。私はもう、ここから逃げ出すつもりはありません」
私の毅然たる言葉に、殿下は怪訝そうに顔をしかめたが、すぐにそれを振り払うように笑みを作る。
「なら良いんだ。さあ、この花束を――」
「……ディラン殿下」
私は殿下の言葉を遮り、ベッドから静かに足を下ろした。
金属の鎖が、重り合って音を立てる。
私はその冷気にひるむことなく、目の前に立つ青年と正面から向き合った。
「……王妃様のこと、セバスさんから伺いました」
その瞬間、まるで世界からすべての音と、色彩が消え去ったかのような静寂が訪れた。
ディラン殿下の顔の元に浮かんだ微笑みが、跡形もなく霧散する。
サファイアの光が揺れ動き、その奥底に潜んでいた暗闇があふれ落ちた。
「……セバスが、君に何を余計なことを話したのかい?」
肌を刺すような、怒りを含んだかのような凍りつく声。
けれど、私は一歩も退くことなく、むしろ彼に歩み寄った。
「殿下は、居場所がないという孤独と恐怖の中で……お一人で戦ってこられたのですね」
「エレナ、君は何も言わなくていい。私の過去に触れないでくれ……!」
「今まで、殿下が心のなかで苦しんでいたことに気づきませんでした。……申し訳ありません」
「……黙ってくれ……!」
――ドンッ!!
ディラン殿下が拳で近くの姿見の鏡を殴りつけた。
鏡に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、破片が床へ飛び散る。
殿下の白い手から赤い血がにじみ出ると、その雫が地面に落ちた大輪の薔薇を濡らした。
「私の過去を知って、同情でもしているつもりか! 私を、嘲笑うつもりか……!」
「いいえ! 違います!」
「なら何だ!? 私が惨めで、歪んでいて、狂っているから……だから君も私を捨てるのか! 母上と同じように、私を嫌悪して、逃げ出す気なんだろう!」
怒号とともに、ディラン殿下が私の両肩を強くつかみ寄せた。
骨まで軋むほどの強い力に、苦痛で声が漏れ出そうになる。
「そんなことは許さない……! 君が私を嫌おうと、蔑もうと、私はこの手を離さない! 君を一生ここに縛り付け、私だけのものにしてやる……! ここから……私から逃げられると思うな!」
それは、愛の言葉などではなく、必死にすがりつく悲鳴だった。
彼は、私を支配しているのではない。
私に捨てられることを、誰よりも恐れて、雪原を裸足で歩くかのように震えている。
肩の痛みに耐えながら、私は彼の手を振り払うことなく、その虚無に染まる瞳を見つめ続けた。
「……違います、ディラン殿下。私は……あなたを哀れんでなどいません。あなたを捨てて逃げるつもりもありません!」
私の叫びに気圧されるように、殿下はわずかに体を波打たせる。
「私は民の笑顔のために努力し、子供たちに優しく微笑むあなたの姿……それに私は、心から惹かれたのです! 私が好きになったのは、そんなあなたです!」
「エレ……ナ……?」
「だから……悲しく、悔しいのです。あなたがそこまでご自身を追い詰め、私を閉じ込めなければならなかったほど傷つき、怯えていたと知っていれば……」
私の目から、涙があふれ出した。
それは恐怖が押し出した涙ではなく、彼の抱えてきた孤独に対する、痛切な愛おしさの涙だった。
「私は……恐怖や鎖で縛り付ける関係ではなく、対等に手を取り合って歩んでいきたかったのです。あなたが私を信じてくださらなかったこと……それが、私にとって何よりも悲しかった……!」
静かな部屋に、私の震える声と、涙の落ちる音だけが響き渡る。
ディラン殿下は、手の力をゆっくりと抜いていった。
その瞳に残されたのは、誰からも愛されたことがなく、傷つくのを恐れて怯えていた、幼い青年の素顔だった。
「君の……想、い……?」
「……私は、殿下のことが好きです。あなたが傷ついているのなら、私のすべてを賭けて寄り添いたかった。全部知っていたら……、あなたの心をすぐにでも救いに行けたのにと悔しかったのです……」
サファイアの瞳が驚愕に染まり、彼はよろめきながら後退りした。
「あ……あぁ……、私は……私は一体……」
血に染まる自らの手を見つめ、そして自ら束縛した私を見つめる。
剥き出しになった青年の傷口が、痛々しくそこに晒されていた。





