10話 たどり着いてしまった推測
ディラン殿下の正式な婚約者となってからというもの、私の毎日は目まぐるしいほど忙しく過ぎ去っていた。
国王陛下へのご謁見、貴族の方々へのご挨拶、妃教育の準備。
押し寄せるスケジュールに追われ、自分の感情や周囲の状況について思考を巡らせる暇など、一瞬たりともなかった。
「そう言えば、ディラン殿下。王妃様へのご挨拶はいつになるのでしょうか?」
王太子宮の応接室で、何気なく尋ねた時のことだった。
「……母上へか……」
一瞬、空気が凍りついたように感じた。
それまで爽やかな笑顔を浮かべていたディラン殿下が、目を伏せて顔を曇らせる。
「母上へは……挨拶をしなくて大丈夫だ」
「え? でも、ご挨拶をしないわけには……」
「……エレナ。連日の挨拶回りばかりで疲れてしまっただろう。少し休んだ方がいい。温かい紅茶でも持って来させよう」
殿下は私の言葉をさえぎるように立ち上がると、逃げるように私の部屋から出ていってしまった。
バタン、と静かだけれど強制的に閉ざされた扉。
部屋に取り残された私は、手持ち無沙汰になってしまい、ソファに腰を下ろした。
(私……聞いてはいけないことに触れてしまったのかしら……?)
王妃様は体調を崩されて療養中だと聞いている。
社交界でもそのお姿を見かけたことは一度もない。
一人で天井を仰ぎ見ながら、ぽつりと呟く。
「……私、殿下のこと……まだ何も知らないのね」
あまりにも怒涛の展開で、全てがトントン拍子に進んでいった。
だからこそ、彼の過去や内面について知ることが、ずっと後回しになってしまっていたのだ。
その時、胸の奥で、小さな違和感が首をもたげた。
それは、計算ミスを見つけた時とまったく同じ感覚。
どこかの数字が狂っている。
そんな、不協和音が浮き彫りになる直感だ。
「何だか……怖いくらいに、上手く行きすぎていないかしら……?」
思考の糸を手繰り寄せる。
私とディラン殿下が出会ってから、まだ一ヶ月も経っていない。
それなのに、私を苦しめていた悪女の噂、冷遇する実家、執拗に絡むカールも、まるで魔法のようにあっけなく消えてなくなった。
あらかじめ、そうなるように仕組まれた筋書きのように、すべてが書き換わったのだ。
「私の……気のせいかしら?」
ほんのわずかな引っかかりがどうしても見逃せなくて、私は得意の計算をするように、これまでの出来事を整理し始めた。
「まず……カールが私をあの古い別邸へ呼び出したのは、侯爵家が急速に傾き始めたからよ」
そこで、大きな矛盾に突き当たる。
私は侯爵家の帳簿も影で処理させられていた。
だからこそ、分かるのだ。
いくら侯爵家の無能さがあったとしても、あまりにも早く破綻が始まっている。
「カールがあんなにパニックになるほど、侯爵家の財政は切迫していなかったはずよ……」
カールは言っていた。
『取引先からは信用を失って次々と契約を打ち切られた』
『いっせいに借金の返済を迫られた』
それが、私が実家を脱出したのと、ほぼ同時に起こっている。
まるで、あらかじめ仕掛けられたドミノ倒しのようだ。
「誰かが裏で、意図的に侯爵家を追い詰めたということ……? でも、一体何のために……?」
仮にも、侯爵家はこの国の上級貴族だ。
それほどの家格を持つ存在を、これほど短期間で資金難に陥らせ、社会的に殺しきれる人物などそういない。
「そんなことができる人なんて……この国に、数えるほどしか……」
脳裏に、ある一人の人物の姿が思い浮かび上がった。
背筋に冷たい氷を落とされたような、不気味な寒気が走った。
「そんな……まさか、そんなはずはないわ。私の思い過ごしよ……!」
頭を振って必死に打ち消そうとする。
けれど、一度組み上がってしまった計算式は、するりと答えを導き出していく。
「もし、私の推測が正しいとしたら……」
彼は何のために、上級貴族を破滅させるリスクを冒してまで、こんな大掛かりな罠を仕掛けたのだろうか。
「ただ単に、侯爵家と伯爵家の不正を暴きたかっただけ……?」
それなら、わざわざ私を巻き込む必要などないはずだ。
この一連の壮大な劇の利益は何なのか、思考を巡らせてしまう。
「あ…………」
自分の思い描いた、あまりにもおこがましく、そして恐ろしい答えに、私の呼吸が一瞬止まる。
この完璧すぎる筋書きの結果、彼が手に入れたもの。
それは他でもない――私だ。
「すべて、彼の手のひらの上で踊らされていた……?」
心臓が早鐘のように鳴り、指先がわずかに震え出す。
その直後。
――コン、コン
静まり返った部屋に、ノックの音が響いた。
「エレナ、紅茶を持ってきた。入るよ」





