森の傷
二度目の遠征は、三十人だった。
荷車が三台、六百の瓶を藁で包んで積んである。荷車は一日半の深さ、引き返しの岩までしか入れない。そこから先は、兵が背負い、馬に積んで運ぶ。
隊の後ろのほうに、白髪の老人が一人、腰を少し曲げて歩いていた。衛生兵のヨストさん。四十年、辺境騎士団にいる一番の古株で、傷を洗い、縫い、黒くなった手足を切ってきた人だと、ティムが小声で教えてくれた。
「ヨストさんが付いてくる遠征は、本気の遠征なんです」
ヨストさんは私と目が合うと、ゆっくり頭を下げた。指の太い、大きな手をしていた。
一日目は何事もなく過ぎた。二日目の昼に引き返しの岩に着くと、前回一緒だった古参の兵たちが、道標の頭をぽんと叩いてから岩の脇を通り過ぎた。初めての兵たちは、それを見て、顔を見合わせてから後に続いた。
その日の夕方、第二哨所跡に着いた。門柱の根元には、前回刻んだ「ここまで来た」の字と、八人の名前が残っていた。初めての兵たちが、その字の前に集まって、指でなぞっていた。
◇
夜半だった。
焚き火の番の兵が、短く笛を吹いた。
目を開けたときには、閣下はもう剣を抜いて立ち上がっていた。
「起きろ。灰牙だ」
塀の外の暗がりに、光る目がいくつも並んでいた。低い唸り声が、塀をぐるりと取り巻いている。
崩れた塀の切れ目から、灰色の大きな獣が飛び込んできた。狼に似ているけれど、子牛ほどの大きさがある。焚き火の明かりに、長い牙が光った。
兵たちが槍をそろえて突き出す。灰牙が跳ね退き、別の一頭が横から回り込む。
「リゼル、瓶の陰へ」
閣下が私の前に立った。私は言われたとおり、瓶の木箱を積んだ陰に身を伏せた。
閣下の剣が一閃するたびに、灰牙が悲鳴を上げて地面を転がった。三頭、四頭。兵たちの槍が、塀の切れ目を少しずつ押し返していく。
そのとき、木箱の向こうで、ティムの叫び声がした。
「うあっ……!」
一頭の灰牙が、ティムの腿に食らいついていた。ティムが槍の柄で獣の頭を殴りつける。古参の兵が横から槍を突き入れ、灰牙はティムを放して、塀の外へ逃げていった。
やがて、群れが引いた。唸り声が森の奥へ遠ざかり、静かになった。
閣下が剣を下げたまま、真っ先に瓶の木箱の陰を覗き込んだ。
「怪我は」
「ありません。瓶も、一つも割れていません」
「瓶はいい」
閣下は短く言って、私の顔と両手を確かめるように見た。それから、ようやく剣を鞘に納めた。
そのときになって、私は気づいた。さっき、閣下は私を「メーレン嬢」ではなく、「リゼル」と呼んだ。
たぶん、急いでいたからだ。そう思うことにして、私は立ち上がった。
◇
「ティム!」
私が駆け寄ったときには、ヨストさんがもうティムのそばに膝をついていた。
ティムの左の腿に、牙の跡が深く並んでいた。血があふれている。ティムは歯を食いしばって、「大丈夫です、大丈夫です」と繰り返していた。
ヨストさんは黙って傷を水で洗い、布で押さえ、針と糸で縫った。手つきに迷いがなかった。四十年、同じことをしてきた手だった。
「歩けますかな」
「歩けます!」
「歩けんでしょうな」
ヨストさんは、包帯を巻き終えると、ゆっくり立ち上がって閣下のほうを見た。
「若。夜が明けたら、傷を見せてくだされ。それで決めましょう」
◇
夜明け前に、ヨストさんが包帯を解いた。
私は、ティムの頭のほうに座って、息をのんだ。
縫った傷の縁が、黒ずんでいた。
ほんの数時間前に縫ったばかりの傷だ。それなのに、牙の跡の周りの肉が、墨を落としたように色を変えている。傷口から、あの焦げたような乾いた匂いがした。黒い保存庫の匂いだった。
ティムが自分の脚を見て、顔から血の気が引いた。
「森の傷は、待ってくれんのです」
ヨストさんが静かに言った。
「森の縁なら二日はもちますがな。この深さじゃ、一日もたん。昼にはもっと黒くなる。夜には、熱が出る」
「森の外へ運べば……」
「ここからじゃ、二日かかりますな」
ヨストさんは、ティムの脚から目を離さずに言った。
「二日運べば、脚は、たぶん、だめでしょう」
ティムの唇が震えた。
閣下が、ティムの肩に手を置いた。何か言おうとして、言えずにいるのが分かった。遠征を打ち切って、全員で引き返すか。ティムだけを、誰かに運ばせるか。どちらにしても、脚は――。
私は、ティムの腿の傷を見つめた。
縫い合わされた、傷の口。
口。
瓶の口を閉じれば、森の気は入らない。開けていない瓶の中身は、何日たっても黒くならない。
なら、傷の口は?
「ヨストさん」
声が少しかすれた。
「新しい包帯を、もう一度巻いていただけますか。傷をきちんと覆って、包帯の端が重なるように」
「……何をなさる」
「封をします。瓶の口と同じように」
ヨストさんの白い眉が動いた。閣下が、私の顔を見た。
「傷も、口だと思うんです。閉じて、封をしたら、森の気が入らないかもしれません」
「かもしれない、か」
「はい。分かりません。でも、試さないよりは」
閣下は、ヨストさんを見た。ヨストさんは長く私の顔を見て、それから黙って包帯の巻を取り出した。
新しい包帯が、ティムの腿をぐるりと覆っていく。最後の端を、前の巻きの上に重ねる。
私は封蝋の棒を焚き火にかざした。蜜蝋の匂い。溶けた蝋を、包帯の端の合わせ目に、とろりと落とす。ティムがびくりと身を縮めた。
「熱い?」
「あ、熱くないです。びっくりしただけです」
印章を押す。三つ数える。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
いつもと同じように、指先から何かが流れていく感じがした。瓶のときより、少しだけ重い。
印章を離すと、包帯の端に、琥珀色の蜂が残っていた。
「割封です。蝋を指で割れば、誰でも開けられます。包帯を替えるときは、割って開けてください」
ティムは、自分の腿に押された蜂の紋を、まじまじと見ていた。
「俺の脚、瓶になっちゃいました」
泣き笑いの顔だった。古参の兵が、思わず噴き出した。
私は、閣下とヨストさんを見た。
「昼まで、見ていてください。この深さなら、昼にはもっと黒くなるはずなんですよね」
閣下が、短く息を吐いた。
「出発は昼まで延ばす。全員、ここで待て」
ヨストさんは何も言わずにうなずいて、包帯の上に、そっと大きな手をかざした。




