黒くならない
昼までの数時間が、あんなに長かったことはない。
兵たちは塀の内側で、黙って装具の手入れをしていた。誰も、ティムのほうを見ないようにしていた。見ないようにしながら、何度もちらちらと見ていた。
ティムは横になったまま、自分の腿の琥珀色の蜂を、ときどき指でつついた。
「リゼル様。もし黒くなってたら、俺、片脚の騎士になりますね。片脚でも、瓶は運べますから」
「黙って寝ていなさい」
私が言うと、ティムは「はい」と言って目を閉じた。閉じたまま、口の端が震えていた。
閣下は塀の上で、北を見張っていた。一度も、こちらを振り返らなかった。
◇
日が一番高くなったころ、ヨストさんがティムのそばに膝をついた。
包帯の端の、琥珀色の封蝋に、太い指をかける。ぱきり、と割れる音がした。
兵たちが、いつの間にか周りに集まっていた。閣下も、塀から下りてきていた。
ヨストさんが、包帯をゆっくり解いていく。一巻き、また一巻き。最後の布を、傷からそっと剥がす。
牙の跡が、縫い目の間に並んでいた。
縁が、赤く腫れていた。
赤かった。
黒くは、なかった。
夜明け前に見た、墨を落としたような黒ずみが、広がっていない。縫い目の際に残った黒い筋は、夜明け前と同じ細さのままだった。傷口に鼻を近づけたヨストさんが、顔を上げた。
あの焦げたような匂いが、しなかった。
ヨストさんは、何も言わなかった。
傷を見つめたまま、長いこと、身じろぎもしなかった。白い眉の下の目が、傷の縁を一寸ずつたどっていく。指で、腫れた肉の端をそっと押す。押したところが、赤く戻る。
兵たちも、誰一人、口を開かなかった。
「……四十年で」
ヨストさんが、ようやく言った。かすれた声だった。
「四十年で、初めて見ましたな。森の奥で、黒くならん傷を」
ティムが、ぱっと目を開けた。肘をついて身を起こし、自分の腿を覗き込む。
「赤い……赤いですよ、これ! 普通の怪我の色だ!」
その途端、周りの兵たちが一斉に息を吐いた。誰かが笑い出し、誰かがティムの頭をくしゃくしゃに撫で、誰かが空を仰いで何か祈るように呟いた。
私は、自分の手が震えているのに気づいた。封をするときとは違う震え方だった。
◇
ヨストさんが新しい包帯を巻き、私がまた割封をした。
「森の外の傷と、同じ早さですな」
ヨストさんが、包帯の上から傷のあたりを撫でた。
「膿むときは、膿む。治るのも、森の外と同じだけかかる。ただ、黒くはならん」
「毎日、包帯を替えてください。封は、割れば誰でも開けられます。新しい包帯を巻いたら、また私が封をします」
私は自分に言い聞かせるように、封の決まりを口にした。
「口のあるものに、効くんだと思います。閉じた合わせ目に、封をすれば。瓶の口も、包帯の合わせ目も、同じなんです」
兵たちの間から、ひそひそと声が上がった。
「なあ、怪我したら……」
「糧食係殿のところへ行けばいいのか?」
「馬鹿、糧食係殿じゃねえよ。リゼル様だろ」
古参の兵が、自分の左手を差し出して見せた。中指の先が、ない。
「俺がこいつを失くしたのは、二十年前でしてね。あのとき、リゼル様がいてくださったら、まだ十本ありましたな」
そう言って、自分で笑った。つられて、周りも笑った。
◇
閣下は、遠征を続けると決めた。
ティムは歩けないので、荷を減らした馬の背に乗せることになった。ティムは馬上で「瓶と一緒に運ばれてます」と言って、また古参の兵に頭をはたかれていた。
出発の前に、兵たちが妙にそわそわと私の周りに集まってきた。
一人は、灰牙の爪で腕をかすられていた。一人は、塀の石で手の甲を擦りむいていた。昨夜の騒ぎで、小さな傷を負った兵が、ほかにも何人かいたのだ。いつもなら、この程度の傷は放っておいて、森を出てから洗う。けれど、この深さでは、放っておけば明日には黒くなる。
「リゼル様、これ、封してもらえますか」
差し出された腕を、ヨストさんが洗って包帯で覆い、私が端に封をした。一人、また一人。三つ数えるたびに、包帯の端に琥珀色の蜂が増えていく。
五人目の封を終えたところで、ヨストさんが私の手元を見た。
「お嬢さん、指が赤うなっとります」
「平気です。瓶なら、一日に三百していますから」
「傷の封は、瓶の封より重そうに見えますがな。三つ数えるたびに、息を止めておいでだ」
ヨストさんの目は、ごまかしを許してくれなかった。私は、そうですね、と認めた。瓶の封よりも、傷の封のほうが、指先から流れていくものが少し多い気がする。
「なら、封は傷の深い者から。かすり傷は、わしが朝と晩に見て、縁の色が変わり始めたら、そのときに封をしてもらう」
ヨストさんが兵たちに言い渡すと、残りの兵は素直に腕を引っ込めた。
昼過ぎに第二哨所跡を発った。半日の遅れは、そのまま隊の足に重くのしかかった。
その夜は、第三哨所跡までたどり着けずに、道の脇の倒木の陰で野営した。
焚き火のそばで、私は瓶の数を確かめ、封蝋の棒の残りを数えていた。包帯にも封をするなら、蝋はもう少し持ってくればよかった。
閣下が、隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙って火を見ていた。
「君の封は」
閣下が言った。
「人も守るのか」
「口のあるものなら」
私が答えると、閣下は焚き火の向こうの暗がりを見たまま、小さく息を吐いた。
「父の隊にも、怪我人がいたはずだ」
それきり、閣下は黙った。私も、黙っていた。
夜の森は冷えた。私が無意識に肩をすくめると、ふわりと重いものが肩にかかった。深い苔色の外套だった。まだ、閣下の体温が残っていた。
「閣下、それでは閣下が」
「見張りに立つ。歩いていれば寒くない」
閣下は立ち上がって、剣を腰に戻した。
「寝ろ」
それだけ言って、倒木の向こうの暗がりへ歩いていった。
外套は、少し煙と、鉄の匂いがした。私は外套の襟に顎をうずめて、焚き火の向こうの、閣下の背中を見ていた。
◇
翌朝、夜明け前に発った。朝のうちに第三哨所跡を通り過ぎた。塀はほとんど崩れ、兵舎は跡形もなかった。それでも、門柱だけは立っていた。古い字で、第三哨所。閣下は昼の休みを短く切り上げ、遅れを取り戻すように隊を急がせた。
四日目の日暮れ、先頭を歩いていた兵が足を止めて、手を挙げた。
木々の切れ目の向こうに、石の塀が見えた。第二哨所跡より大きく、塀も高い。苔に覆われてはいるけれど、ほとんど崩れていない。
第四哨所跡だった。
閣下が隊を止め、身を低くするよう手で合図した。
塀の上に、何かがうずくまっていた。
夕日を背にした、黒い、大きな影。熊ほどもある背中が、ゆっくりと上下している。
その影が、こちらを向いて、顎を開いた。




