第四哨所跡
「黒顎だ」
閣下が低く言った。兵たちの間に、緊張が走った。
塀の上の影が、ずるりと身を起こした。熊ほどの大きさの、黒い毛に覆われた獣だった。頭の半分ほどもある顎が、夕日の中で赤黒く開いている。顎の奥に、牙が何列も並んでいた。
塀の内側から、もう一頭が顔を出した。
「二頭か」
閣下は兵たちを振り返らずに、手だけで合図を送った。槍の兵が左右に散り、弓の兵が木の陰に入る。動きに無駄がなかった。この人たちは、森の縁で何年もこうやって魔物を止めてきたのだ。
「メーレン嬢は、瓶と一緒に下がれ。ティムを頼む」
今度は、メーレン嬢だった。私は瓶の木箱を積んだ馬とティムの馬の轡を取って、木々の奥へ下がった。
「リゼル様、俺も戦えます!」
「その脚で?」
「……戦えません」
ティムは馬の上で悔しそうに槍を握りしめていた。
◇
一頭目の黒顎が、塀から跳んだ。
地面が揺れるほどの重さで着地して、そのまま一直線に、先頭の閣下へ突っ込んでくる。開いた顎が、閣下の頭をまるごと呑み込みそうに見えた。
閣下は、動かなかった。
黒顎が目の前に迫った、その一瞬だけ、閣下の身体が横へ滑った。剣が、夕日を一度だけ反射した。
黒顎は閣下のいた場所を通り過ぎ、数歩走って、どさりと倒れた。首の付け根から、黒い血が噴き出していた。
閣下は、もう次を見ていた。
二頭目は、塀の内側から門の切れ目を抜けて出てきた。一頭目よりも用心深く、低く身を伏せて唸っている。弓の兵が矢を放ち、黒顎の肩に刺さった。黒顎が吠えて、槍の兵の列に飛びかかる。
「下がるな! 顎の下を突け!」
閣下の声で、兵たちが槍を突き上げた。何本もの槍が、黒顎の顎の下に食い込む。黒顎が大きく首を振って、槍の兵を一人跳ね飛ばした。その横腹へ、閣下が回り込んでいた。
二度目の剣の光で、黒顎は動かなくなった。
静かになった森に、兵たちの荒い息だけが聞こえた。
私は、轡を握ったまま、閣下の背中を見ていた。夜会で「田舎の辺境伯」と笑われていた人だった。王都の誰も、この人がこういうふうに剣を振るのを、見たことがないのだと思った。
王都で、エーリク様の御前試合を何度も見た。白い制服で、観客席に向かって剣を掲げてから構える人だった。一太刀ごとに、客席から拍手が起きた。
閣下の剣には、掲げる間がなかった。見せるための動きが、一つもなかった。終わってから、何が起きたのかが分かる剣だった。
兵たちは誰も驚いていなかった。団長なら当たり前だという顔で、もう倒れた黒顎の牙の数を数えていた。
閣下は剣の血を払って、振り返った。
まっすぐ、私のほうへ歩いてくる。
「瓶は無事か」
「はい、一つも」
「君は」
「……無事です」
閣下は私の顔を見て、ようやく、ほんの少し肩の力を抜いた。それから、跳ね飛ばされた兵のほうへ歩いていった。その兵は脇腹を打っただけで、自分で立ち上がっていた。
私の隣で、ティムが小声で言った。
「団長、瓶より先にリゼル様のこと聞こうとして、途中で順番変えましたよね、今」
「ティム」
「はい、黙ります」
◇
第四哨所跡の門は、扉が朽ちて、片側が地面に落ちていた。
門をくぐると、塀の内側は思ったより広かった。屋根の落ちた兵舎が三つ、石で囲った井戸、竈の跡、馬をつないだらしい杭の列。井戸の釣瓶は朽ちていたけれど、兵が持ってきた桶を下ろすと、冷たい水が汲めた。
「水が出るぞ!」
兵の一人が声を上げた。二百年、誰も汲まなかった井戸だった。
門の内側の柱に、古い字が刻んであった。第四哨所。その下に、何か小さく彫ってある。苔を落とすと、蜂の形をした小さな印のようなものが見えた。けれど、風雨で削れて、はっきりとは分からなかった。
兵たちは、荷を下ろすより先に、塀の中をぐるりと歩き回った。石を撫でる者、門柱を見上げる者、井戸の水を手ですくって顔を洗う者。誰かが「第四哨所だぞ」と言うと、別の誰かが「四日だぞ、四日」と答えた。それだけで、また誰かが笑った。
閣下は、塀の一番高いところに上がって、北の森を長いこと見ていた。父君の隊が戻らなかった森の、その奥を。
兵舎の一つは、壁がほとんど残っていた。中へ入ると、閣下がランプを掲げて壁を照らした。
壁一面に、字が刻まれていた。
兵たちの落書きだった。剣の先か、釘で引っかいたような字。名前。日付らしい数字。女の人の名前と、その横に下手な花の絵。故郷の村の名前。
その中の一つに、私の目が止まった。
――三日目のパンは黒い。蜂の瓶が来るまで、あと二日。
その下に、別の人の手で、もっと乱暴な字が刻んであった。
――来た。すっぱい。
「……リゼル様の瓶と同じこと言ってる」
ティムがぽかんと口を開けた。
兵たちが、ランプの明かりの中で、黙ってその字を見上げていた。
最初に笑ったのは、古参の兵だった。
「……二百年前の奴も、三日目のパンに文句を言ってたのか」
何人かが、つられて笑った。けれど、その笑いはすぐに止んだ。
二百年前の兵も、ここで、同じ黒いパンを手にしていた。同じように腹を空かせて、同じように何かを待っていた。
蜂の瓶。
私は、首から下げた真鍮の印章に、無意識に手を触れていた。
「蜂の瓶って、何でしょうね」
馬から下ろしてもらったティムが、無事なほうの脚で立って、壁に寄りかかりながら言った。
「分からない」
閣下が答えた。ランプを少し動かして、壁の奥を照らす。
兵舎の一番奥の床に、四角い穴が開いていた。下へ続く、石の段が見える。
閣下がランプを掲げて、石段を照らした。石段の下に、鉄の扉があった。錆びて赤茶けているけれど、扉そのものは形を保っている。
「地下の貯蔵庫か」
閣下が先に下りた。私が続こうとすると、閣下は一度振り返り、それから何も言わずに手を差し出した。石段は苔で濡れて、滑りやすかった。私はその手を取った。
鉄の扉には、閂がかかっていなかった。
閣下が肩で扉を押す。錆びた蝶番が、長い悲鳴のような音を立てた。
扉の向こうから、冷たい空気が流れ出てきた。地下の、乾いた、ひんやりとした空気。黒い保存庫の焦げた匂いは、しなかった。
閣下がランプを掲げた。
暗がりの奥に、棚がずらりと並んでいた。奥へ奥へ、ランプの光の届かないところまで。
その棚の上で、何かが、ランプの明かりを受けて、琥珀色に光った。




