開かない瓶
瓶だった。
閣下がランプを掲げて一歩踏み込むと、明かりの輪が棚の列に沿って奥へ伸びていった。どの棚にも、瓶が隙間なく並んでいる。口の広い、緑がかったガラスの瓶。第二哨所跡で、ティムが土の中から掘り出したかけらと、同じ色の瓶だった。
一つ、二つではない。棚が奥まで十列以上あって、一列に何十も並んでいる。数百か、もっとか。
そして、どの瓶の口にも、琥珀色の封蝋が押してあった。
私は、息をするのを忘れていた。
一番手前の棚に近づいて、ランプの明かりに瓶を透かす。中身が見えた。酢漬けらしい、刻んだ根菜。隣の瓶は、赤い実の砂糖煮。その隣は、薄く切った何かの酢漬け。
色が、変わっていなかった。
根菜は、ちゃんと根菜の色をしている。赤い実は、詰めた日の赤のまま、蜜の中に沈んでいる。二年前の桜桃と同じように。
二百年前の瓶だ。
「……閣下」
声が震えた。
「これ、封です。私と同じ」
封蝋に顔を近づける。琥珀色の、染めていない蜜蝋の色。その上に、印章の跡がくっきり残っていた。
蜂だった。一匹の蜂を、葉の輪が丸く囲んでいる。
祖母の印章の蜂と、どこか似ていた。羽の線の引き方、胴の丸み。けれど祖母の印章には、葉の輪はない。蜂が一匹いるだけだ。
◇
閣下が兵を何人か呼び、貯蔵庫にランプをいくつも運び込ませた。明るくなった地下で、兵たちは棚の列を見上げて、口々に何か言っては黙った。
「蜂の瓶って、これのことですよ。壁に書いてあった」
ティムが、兵の肩につかまって石段を下りてきて言った。
私は、一番手前の瓶を両手で持ち上げた。ずしりと重い。封蝋の縁に、指を当てる。
割封なら、爪で押せば割れる。
押した。割れなかった。
今度は、自分の封を解くときのように、蝋に指を当てて、解けと念じてみた。指先から何かが流れていく、いつもの感じがない。蝋は、ただの冷たい蝋のまま、私の指を受けつけなかった。
「開かないわ」
自分の封なら、私が触れれば解ける。他人の封は、私には解けない。
「割ってもいいか」
閣下が聞いた。私がうなずくと、古参の兵が腰の小槌を抜いた。瓶を床の石に置き、少しためらってから、瓶の肩を叩く。
こん、と鈍い音がした。
瓶は割れなかった。ひびも入らなかった。兵はもう一度、今度は力を込めて叩いた。小槌が跳ね返って、兵の手から落ちそうになった。
「なんだこりゃ。ガラスだろう、これ」
「貸せ」
閣下が瓶を受け取り、剣の柄頭で、瓶の口の近くを打った。夜会で、騎士の短剣が誓約書の紙を一枚も切れなかったときと、同じだった。瓶はびくともしなかった。
「固封です」
私は言った。
「封をした人が解くまで、何をしても開きません。器ごと、刃も槌も通さなくなるんです。私の、誓約書の封と同じ」
「二百年だぞ」
閣下が、瓶を見つめたまま言った。
「二百年、封がもっているのか」
「封は、封をした人が解くか、その人が亡くなって封の力が抜けるまでもちます。強い封ほど、長く」
そこまで言って、私は自分の言葉にぞっとした。
二百年。封をした人は、もうとっくにいないはずだ。それなのに、この封には、まだ力が残っている。
私の封が二百年もつかどうか、私には分からない。たぶん、もたない。
「……私より、強い封かもしれません」
貯蔵庫が静まった。
私は、自分の木箱から持ってきた瓶を一つ出して、開かない瓶の隣に並べた。琥珀色の封が二つ、ランプの下に並ぶ。
並べると、違いがよく分かった。二百年前の封蝋は、私のものより厚く、縁がきれいな円を描いている。印章の跡は深く、蜂の羽の筋の一本一本まで、くっきりと残っていた。蝋を落とす量も、押す力も、迷いがない。何千、何万と封をしてきた手の封だった。
私は四年で、たぶん千と少し。それも全部、何年も開かない瓶にするつもりで押してきた。この人は、どれだけの瓶に、どれだけ固く封をしたのだろう。
「書記局の封緘持ちは、毎日封をしているはずだが」
閣下が、私の肩越しに二つの封を見比べて言った。
「書記局の封は、開けられたら分かればいい封です。軽い荷しか持たない腕は、毎日持っても太くなりません。祖母は、加護は使うほど強くなると言っていました。筋肉と同じだって。重いものを持つほど」
「なら、君の封も、まだ強くなる」
閣下は当たり前のことのように言って、ランプを持ち直した。
◇
その夜、兵舎の屋根のない壁の内側で野営した。焚き火のそばに、開かない瓶を一つ置いた。
閣下は、長いこと黙ってその瓶を見ていた。
「哨所が、なぜ一日ごとに並んでいられたのか。ずっと分からなかった」
閣下が言った。
「記録は焼けた。砦の書庫にあったはずのものは、百五十年前の火事で全部。残ったのは、哨所があったという話と、引き返しの岩の道標だけだ」
「この瓶で、食べていたんですね。二百年前の人たちは」
「蜂の瓶が来るまで、あと二日」
閣下は、壁の落書きの文句をそのまま口にした。
「誰かが、瓶を運んでいた。哨所から哨所へ。三日で腐らない瓶を」
焚き火がはぜた。
「父がこれを知っていたら」
閣下は、それ以上は言わなかった。
私は膝の上の瓶を撫でた。冷たいガラスの向こうで、赤い実が、二百年前の赤のまま、じっと沈んでいる。
誰かが、この実を摘んで、砂糖で煮て、瓶に詰めて、湯で煮て、封をした。私と同じ手順で。私と同じ加護で。私よりも、ずっと強い封で。
その人は、この森の奥へ、何のために瓶を運んでいたのだろう。
◇
翌朝、閣下は第四哨所跡の塀と門を見て回り、兵たちに傷んだ箇所を書き留めさせた。それから、地下の貯蔵庫の鉄の扉を閉めさせた。
「瓶は、置いていく。いずれ、ここに人を置く」
私は、一つだけ持ち帰らせてもらえないかと頼んだ。閣下はうなずき、瓶を藁で何重にも包ませて、私の木箱に入れさせた。
帰り道は、来たときよりも静かだった。
「リゼル様の家の紋ですか、あの蜂」
ティムに聞かれて、私は首を振った。
「メーレン家の紋は、羽根ペンよ。蜂は、祖母の印章の紋。祖母のは蜂が一匹だけで、葉の輪はないの」
祖母は、なぜ蜂の印章を持っていたのだろう。北の生まれだということしか、私は知らない。兵たちは時々、木箱のほうを振り返った。ティムの傷は、毎日包帯を替えるたびに赤みが引いていき、三日目には、馬から下りて自分の足で少し歩けるようになった。
四日目の昼、森の縁が見えた。木々の向こうに、明るい空がある。
森を出たところで、兵たちが歓声を上げかけて、止まった。
森の縁の見張り塔の下に、砦の早馬が一頭、待っていた。伝令の兵が、私たちを見つけて駆け寄ってくる。
「団長! 副団長からです!」
閣下が受け取った紙は、短い手紙だった。閣下は一目で読み終えて、眉間に皺を寄せた。
私に、黙って手紙を見せてくれた。副団長の、角ばった字だった。
――王都から使いが来た。至急戻られたし。




