王命
砦の門に着いたのは、夕方だった。
見張り塔から知らせが届いていたらしく、門の前には兵が鈴なりになっていた。前回と同じだった。違ったのは、ティムが馬の上から叫ぶより先に、兵たちのほうから声が上がったことだ。
「何日目だ! どこまで行った!」
古参の兵が、両手の指を四本ずつ立てて、高く掲げた。
「第四哨所だ!」
門の前が、どっと沸いた。帽子が宙に飛び、誰かが太鼓を叩き始め、厨房の窓からウルスラさんが鍋の蓋を打ち鳴らした。ヤーナが人垣をかき分けて走ってきて、私の両手を握りしめ、包帯の封の跡を見つけて「お嬢様、手がまた赤い」と怒った。
ティムは馬の上で、包帯に押された蜂の紋を兵たちに見せて回っていた。
「見ろよ、俺の脚! 森の奥で噛まれて、黒くならなかったんだ!」
ヨストさんがそれを止めもせず、少し離れたところで、黙って笑っていた。
騒ぎの中で、副団長だけが、門の内側に立ったまま動かなかった。
顔が、渋かった。
◇
王の使いは、砦の執務室で待っていた。王宮の紋の入った外套を着た、若い書記官だった。閣下が部屋に入ると、使いは立ち上がって、蝋で封をした書状を差し出した。
赤い封蝋だった。書記局の封だ。
閣下が封を割ると、蝋はぱちりと赤く光って割れた。開けたことが、誰の目にも分かる割れ方だった。書記局の封は、こういうものなのだと、私は初めて自分の目で見た。
父の書記局で働く封緘持ちの封を、私は一度も開けたことがなかった。父の机の上の勅書の写しには、いつも赤い封があった。子供のころ、触ろうとして叱られた。だから、書記局の封も、私の封と同じように固いものだと、どこかで思い込んでいた。
違った。赤い封は、閣下の指で、あっけなく割れた。開けられたことが、後から分かる。それだけの封だった。
夜会で、侯爵夫人が言った言葉を思い出した。書記の家の封など、開けられたことが分かるだけのものでしょう、と。夫人は、書記局の封のことを言っていたのだ。
閣下は書状を読み、それから黙って私と副団長に回した。
――王都騎士団第三中隊、魔の森の第四哨所跡を目指すべし。辺境伯は、道案内と宿営地を供すべし。
日付を数えると、第三中隊は、もう三日もすれば砦に着く。
「三日後か」
閣下が呟いた。
「手柄を取りに来たんだ」
副団長が、吐き捨てるように言った。
「こっちが十年かけて、ようやく越えた道を。団長が毎年王都で頭を下げて、毎年断られて、それでも諦めなかった道を。王都の騎士団が、宿と道案内付きで、物見遊山に来るってわけだ」
「オットマー」
「言わせてください、団長。第四哨所まで行ったのは、俺たちです。いや、俺は留守番だったが……行ったのは、こいつらと、この人の瓶だ」
副団長が、私のほうを顎で示した。
使いの書記官が、気まずそうに咳払いをした。
「王は、辺境の報告をたいそう面白がっておられました。王都騎士団にも同じことができるか、見てみたいと」
「できるかどうか、森が決める」
閣下は短く言った。
「王命だ。道は出す」
◇
使いが下がった後、私たちは台所の隣の小部屋で、遅い夕食をとった。ウルスラさんが、遠征から戻った兵たちのために、大鍋いっぱいの煮込みを作ってくれていた。瓶ではない、作りたての煮込み。酢は入っていなかった。
「第三中隊って、王都騎士団のどの人の隊だい」
ウルスラさんが、鍋をかき混ぜながら聞いた。
ヤーナが匙を止めた。副団長も止めた。
閣下が、書状の写しを見ながら答えた。
「中隊長は、エーリク・ザイフェルト」
ウルスラさんの手が止まった。
「ザイフェルトって、たしか、お嬢の――」
ヤーナが、ものすごい速さで立ち上がって、ウルスラさんの口を手でふさいだ。ウルスラさんは目を白黒させて、「むぐ」と言った。
私は、匙を持ったまま、一拍だけ動けなかった。
エーリク様。
夜会の大広間。白い制服の金の飾り緒。封をするだけの加護で、騎士の妻が務まるか。
一拍。それだけだった。
封をしたものは、振り返らない。
「三日後なら、宿営地の水場と、薪の置き場を決めておかないといけませんね」
私は匙を置いて、副団長を見た。
「百人ですか? 王都騎士団の糧食は、王都から持ってくるんでしょうか。足りなければ、瓶蔵の瓶をお分けできますけれど、六百のうち、二度目の遠征で使った残りは百と少ししか――」
「お嬢様」
ヤーナが、ウルスラさんの口から手を離して、私の隣に座り直した。
「また、封の外にご自分の気持ちを置いてきましたね」
「置いてきたんじゃないわ。封をしたの」
「同じことです」
ヤーナは、怒ったような顔で、私の皿に煮込みを足した。
閣下は、書状の写しを畳んで、私のほうを見た。
「君は、会わなくていい」
静かな声だった。
「王都隊の相手は、俺とオットマーがする。君は、瓶蔵にいればいい」
私は、少し考えてから、首を振った。
「糧食係ですので。森へ入る隊の糧食のことは、お話しします」
閣下の黒い目が、私の顔の上で止まった。やがて、短く息を吐いた。
「……分かった。ただし、俺の隣だ」
「森の中でもないのに、ですか」
「森の中より、危ないかもしれん」
副団長が、噴き出しかけて咳払いでごまかした。
◇
瓶蔵へ戻る途中、入り口の壁の前に、ティムがしゃがみこんでいた。脚の包帯をかばいながら、壁に貼った決まりの紙を、一字ずつ指でなぞっている。
「びんに、いれて、よいのは……すいもの、しおの、つよいもの……」
遠征の前に、一緒に読んだ紙だった。あのときは「びんに」で止まっていた。
「かわいた、もの、だけ。……リゼル様、一行目、全部読めました!」
「すごいわ、ティム」
「明日は、二行目を覚えます」
ティムは得意そうに鼻をこすって、片脚で兵舎へ戻っていった。
その夜、瓶蔵に戻って、持ち帰った開かない瓶を、机の上に置いた。
藁を解くと、緑がかったガラスの中で、赤い実が火鉢の明かりを受けて光った。二百年前の封が、私の封の瓶の列の前で、琥珀色に光っている。
蜂と、葉の輪。
しばらく眺めてから、私は帳面を開いて、宿営地に要るものを書き出し始めた。水場、薪、厠、怪我人を寝かせる場所。百人分。
三日後の昼。
見張り塔の上から、兵が叫んだ。
「南の街道に、騎馬! 荷車の列!」
瓶蔵の小窓から外を見ると、南の丘の上に、白いものが連なっていた。
白い制服の騎馬と、幌をかけた荷車の長い列が、砦へ向かって、ゆっくりと下りてきていた。




