台所の女
王都隊は、砦の南の牧草地に天幕を張った。
白い天幕が、何十も並んだ。荷車が二十台近く、輪を描くように止められている。王都騎士団の旗が、北から吹く冷たい風に、ぱたぱたと鳴っていた。
砦の兵たちは、城壁の上からそれを眺めていた。誰も口には出さなかったけれど、白い制服の兵たちの靴がぴかぴかに磨かれているのを、皆が見ていた。
閣下と副団長が、王都隊の中隊長を迎えに牧草地へ出た。私も、閣下の隣について行った。約束どおりに。
中隊長は、天幕の前で、白馬から降りたところだった。
淡い金髪。薄い水色の目。白い制服の、金の飾り緒。
夜会の夜と、何も変わっていなかった。
「ノルトハイム辺境伯。王命により参った。第三中隊長、エーリク・ザイフェルトだ」
エーリク様は、閣下に形ばかりの礼をした。それから、閣下の隣に立つ私に目を留めた。
一瞬、エーリク様の顔から表情が消えた。
すぐに、口の端が持ち上がった。
「これは驚いた。台所の女が、まだ瓶遊びをしているのか」
エーリク様の後ろに控えていた騎士たちが、くすくすと笑った。王都で、夜会の話を何度も聞かされていたのだろう。
副団長が、一歩前に出かけた。閣下が、手で軽くそれを止めた。
私は、夜会のときと同じように、エーリク様に頭を下げた。
「ザイフェルト中隊長。辺境騎士団の糧食係を務めております、メーレンです。森へお入りになる隊の糧食について、お話をさせていただきたく参りました」
「糧食係」
エーリク様は、その言葉を楽しそうに繰り返した。
「書記の家の娘が、田舎の砦で糧食係か。似合いだな」
◇
王都隊の荷車の幌を、兵が一台めくって見せた。
瓶が、藁の中にぎっしりと並んでいた。王都の商人から集めたらしい、形も大きさもまちまちのガラス瓶。どの瓶の栓の上にも、赤い封蝋が押してある。
書記局の封だった。三日前、閣下の指で、あっけなく割れたのと同じ。
荷車の脇に、王都の書記の服を着た男が二人立っていた。王都隊が雇った、封緘の加護を持つ書記だという。二人とも、私の顔を知っていた。父の局の人たちだ。気まずそうに会釈をされた。
「中を、拝見してもよろしいですか」
「見るだけならな」
私は瓶を一つ持ち上げて、日に透かした。
茶色い煮込みの上に、白く固まった脂が、蓋のように厚く浮いていた。脂の下に、柔らかく煮崩れた肉と、豆が沈んでいる。
栓に鼻を近づけた。酢の匂いが、しなかった。
隣の瓶も、その隣の瓶も、同じだった。
背中が、冷たくなった。ティムの瓶を、棚の隅で見つけたときと同じ冷たさだった。
「ザイフェルト中隊長」
私は瓶を荷車に戻して、エーリク様に向き直った。
「この瓶では、森の中で持ちません」
エーリク様の眉が、ぴくりと動いた。
「赤い封は、開けたことが分かるだけの封です。森の気を止めるかどうか、誰も確かめていません。砦で試した、普通の蝋で閉じた瓶は、森に置いて三日目に中が黒くなりました」
「書記局の封だぞ。王の勅書にも使う封だ」
「はい。勅書は、開けたことが分かれば足りますので」
荷車の脇の書記の一人が、何か言いかけて、口を閉じた。
「それに、肉と豆が入っています。酢の匂いがしません。塩も、王都の料理長の味なら、きっと控えめです。酢と塩の足りない肉と豆を閉じた瓶に入れると、中で毒が生まれることがあります。食べると、物が二重に見えて、まぶたが下がって、飲み込めなくなります。重いと、息が――」
「もういい」
エーリク様が、片手を上げて私の言葉を遮った。
「瓶の毒? 王都の料理長が作った煮込みだ。王都の倉ならひと冬は持つと、料理長が言っていた」
「王都の倉と、森の中は違います。それに、ひと冬持つかどうかではなくて、毒が生まれるかどうかが――」
エーリク様は、もう聞いていなかった。荷車に並んだ瓶の列を、満足そうに眺めている。
「私の瓶を、百人分お分けします」
気がつくと、私はそう言っていた。
「瓶蔵の残りでは足りませんが、三日いただければ、砦の台所で百人の四日分を作れます。酢で煮た肉と根菜と、乾かしたパンです。封は私がします」
王都隊の騎士たちが、顔を見合わせた。
エーリク様が、笑った。
「台所の女が、騎士に指図するな」
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「辺境の瓶を食って奥へ進んだら、手柄も辺境のものになる。私が知らないとでも思ったか。夜会の仕返しのつもりなら、もう少し上手くやれ」
「仕返しではありません。瓶の――」
「それに、王都騎士団には書記局の封緘持ちが付いている。君の加護と同じ【封緘】だ。王都の書記が二人、毎日封をして、局の封で閉じた瓶だ。田舎の台所で君一人が押した封より、よほど確かだろう」
書記の二人は、うつむいていた。私の封を知らないのだ。知らないまま、自分たちの封で十分だと思っている。私も、つい三日前まで、書記局の封が自分のものと同じだと思っていた。
◇
閣下が、私の前に一歩出た。
「王命どおり、道案内を出す。古参の兵を二人付ける。森の決まりは、その二人に従ってもらう」
「道案内はありがたく借りよう、辺境伯。だが、指図は受けない」
「もう一つ」
閣下は、エーリク様をまっすぐに見た。
「彼女の言うことは、森で正しかった。一度も、外れなかった」
エーリク様は、閣下と私を交互に見た。それから、わざとらしく肩をすくめた。
「田舎の辺境伯は、台所の女に甘いと見える」
騎士たちが、また笑った。
閣下は、何も言い返さなかった。言い返す価値もないという顔で、背を向けた。副団長が、王都隊の騎士たちを一人ずつ睨みつけてから、それに続いた。
私も背を向けようとしたとき、袖を引かれた気がして振り返った。
騎士たちの列の端に、年かさの騎士が一人立っていた。三十代半ばの、日に焼けた顔の男だった。白い制服の肩章で、副官だと分かった。
「メーレン嬢」
低い声だった。周りに聞こえないように。
「さきほどの、瓶の毒の話。もう一度、教えていただけますか。物が二重に見えて、まぶたが下がる。その次は」
私は、その人の目を見た。真剣な目だった。
「飲み込めなくなります。言葉がもつれて、手足に力が入らなくなります。熱は、出ません。栓の浮いた瓶は、開けずに捨ててください」
「熱は出ない」
副官は、私の言葉を一つずつ、口の中で繰り返した。
「ハース。何をしている」
天幕のほうから、エーリク様の声がした。副官は短く私に頭を下げて、列に戻っていった。
◇
その夜、私は瓶蔵の机に向かっていた。
火鉢の明かりの下で、紙を一枚広げる。羽根ペンを取る。
書記の家に生まれて、宛名の書き方だけは、小さいころから父に叩き込まれていた。
――王都騎士団第三中隊 御中。
宛名を書いたところで、私はしばらくペンを止めた。
それから、一行目を書き始めた。




