瓶詰めなら王都にもある(エーリクside)
中隊長になって半月あまり、私は朝の点呼のたびに、百人の部下の目が自分に集まるのを数えていた。
第三中隊の騎士と兵、合わせて百。王都騎士団の中隊長で、二十四歳の者はほかにいない。点呼の後に訓練場を歩けば、ほかの中隊の騎士たちが道を空ける。父上が中隊長になったのは二十九の年だった。
夜会の一件も、もう笑い話になっていた。
「書記の家の小細工だ。あの女の父親は書記局長だぞ。破れない紙くらい、局の倉にいくらでもあるだろう」
食堂でそう言うと、部下たちはどっと笑った。本当のところは知らない。知る必要もない。破棄は成っている。私はメルツ家との縁談を進め、あの女は王都から消えた。それで十分だった。
婚約していた三年の間に一度だけ、あの女が私の誕生日に瓶を一つ寄越したことがある。桜桃の砂糖煮だと言っていた。琥珀色の蝋で封がしてあって、蜂の模様が押してあった。
騎士の誕生日に、瓶詰め。私はその場で礼を言い、屋敷に帰ってから、封も割らずに従者にくれてやった。従者がそれをどうしたかは知らない。
ただ、母上の機嫌だけは直らなかった。
「『ザイフェルト家の申し出による』。書記局の正本に、我が家の名でそう残っているのよ。あの小娘の封のせいで、書き直すこともできない」
屋敷に帰るたびに、同じ話を聞かされる。そのたびに私は、あの夜の琥珀色の封を思い出して、苛立った。
◇
その日、騎士団長の部屋に呼ばれたのは、昼過ぎだった。
団長は机の上に一枚の紙を広げていた。王宮の書記が写した、辺境からの報告の写しだという。
「ノルトハイムの辺境騎士団が、森の引き返しの岩を越えたそうだ」
団長は紙を指で叩いた。
「第二哨所跡まで行って、全員無事に戻った。百年以上、越えて戻った者のいない岩をな」
「……辺境が、ですか」
「糧食は、メーレン伯爵家の令嬢の瓶による、と書いてある」
団長は顔を上げて、私を見た。
「メーレン。お前が夜会で婚約を破棄した娘だな」
部屋の空気が、少し冷えた気がした。
私は笑ってみせた。
「田舎の瓶遊びですよ、団長。あの女は屋敷の地下で、下女の真似ごとをしていた。辺境伯が物珍しさで拾っていったのでしょう」
「その瓶遊びで、辺境は岩を越えた」
「たまたまでしょう。それに、瓶詰めなら王都にもあります。封緘持ちなら、書記局に十人はいる。辺境にできて、王都騎士団にできないことはありません」
団長は黙って、机の引き出しから古い地図を出した。王都騎士団の書庫にあったという、二百年前の写しだった。森の中に、点が四つ、一列に並んでいる。第一哨所、第二哨所、第三哨所、第四哨所。
「哨所は一日ごとの行程に並んでいた。第二哨所は二日の深さ。第四哨所は、四日だ」
私は地図の一番奥の点を見た。
四日。辺境が行ったのは二日。倍の深さだ。
「王が、この報告をたいそう面白がっておられる」
団長は、地図の上で指を組んだ。
「辺境が奥へ進むのはいい。だが、森の手柄を辺境だけのものにしておくのは、王都騎士団の面目にかかわる」
私は、背筋が伸びるのを感じた。
「団長。第三中隊にお任せください。第四哨所まで行ってみせます」
◇
屋敷に帰って母上に話すと、母上は扇を閉じて、久しぶりに笑った。
「辺境に遅れを取るなど、あってはならないことよ。行きなさい、エーリク。あの小娘の瓶など、王都の瓶で上書きしてしまえばいいの」
その夜、メルツ家の晩餐に呼ばれた席で、私は第四哨所の話をした。メルツ家の当主は感心したようにうなずき、イゾルデは黙ってスープを口に運んでいた。
食後、廊下で二人きりになったとき、イゾルデが口を開いた。
「エーリク様。夜会の夜のこと、覚えておいでですか」
「何をだ」
「あの方の封は、騎士の短剣が通りませんでしたわ。わたくし、すぐそばで見ておりました。あれは、書記の家の小細工などでは――」
「イゾルデ」
私は彼女の言葉を遮った。
「君は灯火の加護を持つ、騎士の妻になる人だ。台所の女の話など、しなくていい」
イゾルデは何か言いかけて、唇を結んだ。それから「失礼いたしました」とだけ言って、先に食堂へ戻っていった。
◇
翌朝、中隊の幹部を集めて、遠征の話をした。
副官のユルゲン・ハースが、最初に手を挙げた。三十五の、兵から叩き上げた男だ。年は私より上だが、私の部下だ。
「中隊長。お言葉ですが、中隊に森へ入った者は一人もおりません。辺境から道案内を借り、辺境の糧食の作り方を学んでから――」
「臆病者は残っていい、ハース」
私が言うと、幹部たちの間に小さな笑いが起きた。ハースは表情を変えずに口を閉じた。
「辺境に頭を下げて、辺境の瓶を食って奥へ進んだら、手柄も辺境のものになる。分からないか」
誰も、何も言わなかった。私は、それを了解と受け取った。
三日後、王の許しが下りた。王都騎士団第三中隊、魔の森の第四哨所跡を目指すこと。辺境伯は道案内と宿営地を出すこと。団長から王命の写しを渡されたとき、私は、辺境伯があの女の隣でこれを読む顔を思い浮かべた。
許しを待つ間に、私は書記局へ行き、封緘の加護を持つ書記を二人雇った。一人一日、銀貨二枚。書記の日当の倍だと言うと、二人とも喜んで引き受けた。瓶に封をして、遠征にも付いてくる。封を見張るだけで、剣を振る必要はない仕事だ。
王都騎士団の台所には、肉の煮込みを作らせた。牛の肉と豆を、たっぷりの脂で、柔らかくなるまで煮込む。兵に力がつくものを、と料理長に言った。酢など入れたら兵が嫌がるから、入れるなとも言った。
台所で、ハースが料理長に何か尋ねていた。
「この煮込みは、瓶に詰めて、どれくらい持つのですか」
「さて、王都の倉なら、ひと冬は持つと聞いておりますが……森のことは存じません」
「ハース。台所の心配は台所に任せろ。お前は兵の数を数えていればいい」
私が言うと、ハースは黙って頭を下げた。料理長がほっとしたように鍋へ戻っていった。
瓶は王都の商人から買い集めた。煮込みを詰めさせ、湯で煮させ、書記たちに赤い封蝋で封をさせる。書記局の、王の勅書にも使う封だ。台所に並んだ瓶の列は、壮観だった。
私は棚の前で、部下たちに言った。
「四日で第四哨所まで行く。辺境の倍の深さだ」




