瓶蔵
五日目の夕方、森の縁を出ると、見張り塔の上から誰かが叫んだ。
砦の門に着くころには、門の前に兵が鈴なりになっていた。ティムが真っ先に駆け出して、両腕を振り回しながら叫んだ。
「越えたぞ! 引き返しの岩を越えた! 第二哨所まで行ったんだ!」
一瞬、門の前が静まり返った。
それから、誰かが叫び返した。何と叫んだのかは分からない。次の瞬間には兵たちが雪崩を打って押し寄せてきて、古参の兵たちが肩を揺さぶられ、背中を叩かれ、門柱に刻んだ文字の話を何度もさせられていた。
その人垣の外に、副団長が立っていた。
副団長は騒ぎに加わらず、まっすぐ私のところへ来た。
「糧食の袋は」
私は背負い袋から、比べるために持っていった糧食の袋を出した。黒く崩れた中身が入ったままだ。それから、空になった瓶を一つ。
副団長は袋の口を開けて、中を見た。瓶を受け取って、栓を抜き、中の匂いを嗅いだ。酢の匂いが、まだ少し残っている。
副団長は長いこと、袋と瓶を両手に持ったまま立っていた。
何も言わなかった。私に軽く頭を下げて、それきり倉のほうへ歩いていった。
◇
翌朝、私が台所へ行こうとすると、廊下で副団長が待っていた。片手に分厚い帳面を抱えている。
「……何個要る」
「え?」
「瓶だ。言え。今日中に揃える」
副団長は帳面を開いて、羽根ペンを構えた。
「次は、三十人で十日の遠征にすると団長が言っておられる。一人一日、いくつ要る」
「煮込みの瓶を一つと、乾かしたパンと干した果物の瓶を一つ。二つです」
「三十人で十日なら、六百」
副団長は帳面に数字を書いて、眉を寄せた。
「瓶が足りん。砦にある空き瓶を全部かき集めても、百もない」
昼前に、副団長と町のガラス工房へ行った。工房の親方のエッボさんは、炉の前で汗を拭きながら、私の持ってきた瓶を手に取って眺めた。
「口の広いやつか。吹けなくはないが、一日に三十がいいとこですな」
「三十……」
「森へ持っていくんですかい。瓶なんか持ってったって、三日で中が黒くなるでしょうに」
「私が封をした瓶は、黒くなりませんでした。引き返しの岩の先でも」
エッボさんは、私と副団長の顔を見比べた。副団長が黙ってうなずくと、親方は持っていた瓶を炉の明かりにかざして、しばらく眺めた。
「……弟子を叩き起こして、夜も吹かせますか。四十までなら、なんとか」
「陶器の壺じゃだめなのかい、お嬢さん。町の窯なら、壺は安くて割れにくい」
中身が見えないのは困るけれど、詰めて、煮て、封をすることはできる。祖母の帳面にも、壺で漬けた酢漬けの話がある。
「壺も使います。栓が合うように、口の大きさをそろえていただけますか」
副団長は私の言葉をそのまま帳面に書き、帰り道でもう段取りを組み始めていた。
「煮るのはウルスラの台所。瓶を洗うのは、お前さんの侍女と、手の空いた兵。栓を打つのも兵にやらせる。お前さんは封だけしてくれ。それが一番速い」
「お前さん」に変わっていた。
昨日まで「糧食係殿」だったのに、と思ったけれど、口には出さなかった。
◇
その日の午後、私は兵たちの前で、一つ試しをした。
同じ煮込みを詰めた瓶を二つ用意する。一つは、コルクで栓をした上から、普通の蝋で目止めしただけの瓶。もう一つは、私の割封をした瓶。
「これを二つ、森に一歩入ったところの見張り小屋に置いてください。三日後に、見に行きましょう」
副団長が「蝋なら同じじゃないのか」と首をかしげた。
「同じかどうかを、確かめたいのです」
◇
夕方、台所へ顔を出すと、ウルスラさんが大鍋の前で私を手招きした。
「ちょいと、嬢ちゃん」
お嬢さん、ではなかった。
「あんたの酢の効かせ方、もう一回、最初から教えな。あたしが煮る。あんたは封に専念しな。遠征の分だろう? あんたが鍋の前に張りついてたら、手が足りないよ」
私が帳面を開くと、ウルスラさんは腕まくりをして、肩を寄せて覗き込んできた。祖母の細い字を、太い指でたどる。
「果物は、煮立ったらすぐ火を引く……。へえ。あたしは三十年、煮込めば煮込むほど旨いと思ってたよ」
「瓶に詰めるときは、別なんです」
「ふうん」
ウルスラさんは、鍋をかき混ぜながら、ふと声を落とした。
「若様がね。森の奥へ行く手立てが見つかるまでは、嫁はもらわないって言ってたんだよ。王都の家は、こんな砦に娘をよこしたがらないしね。……先代様のこともあるし」
「そうなんですか」
「十年だよ。十年、嫁ももらわず、毎年王都に頭を下げに行ってさ。それが、手立てを連れて帰ってきたんだ」
ウルスラさんは鍋から顔を上げて、私を見た。
「あんた、手立てだよ。分かってるかい」
なんと答えればいいのか分からなかったので、私は帳面の次の頁をめくった。
◇
夜、ヤーナと二人で客間に戻る途中、砦の北側が明るいのに気づいた。
空いていたはずの石造りの倉に、明かりが灯っていた。兵たちが出入りして、何かを運び込んでいる。
覗くと、倉の中はすっかり片付けられていた。壁際には新しい木の棚が何段も組まれ、奥には帳面を置くための机と椅子、手を温めるための火鉢まで据えてある。入り口の横には兵が一人立っていて、私を見ると背筋を伸ばした。
扉の上に、焼き印を押した板が掛けてあった。
――瓶蔵。
「お気に召したか」
振り返ると、閣下が立っていた。
「閣下……これは」
「瓶の置き場が要る。台所の隅では足りない」
「見張りまで、大げさです」
「森の糧食だ」
閣下は、当たり前のことを言うように言った。
「剣と同じだ。剣の倉には見張りを立てる」
王都の屋敷では、瓶は地下の隅の、使っていない酒蔵の棚に並べていた。エーリク様はそこを「下女の真似ごとの穴ぐら」と呼んで、一度も下りてこなかった。父は、客が来る日には地下の扉を閉めておくように言った。
瓶のための部屋を、誰かが用意してくれたのは、初めてだった。
閣下は棚の一段を手で叩いて、ぐらつかないのを確かめた。それから火鉢の炭を火箸で少し動かした。
「封をすると手が冷えると、ヤーナに聞いた」
隣でヤーナが、袖で口元を隠してにやにやしていた。
私が何か言う前に、閣下は「明日も早い」と言って倉を出ていった。
その夜遅く、砦の門から、一頭の早馬が南へ駆けていった。王への報告を運ぶのだと、翌朝ティムが教えてくれた。
閣下の報告書には、一行だけ、こう書いてあったそうだ。
――辺境騎士団、引き返しの岩を越え、第二哨所跡に至る。糧食は、メーレン伯爵家の令嬢の瓶による。




