引き返しの岩
閣下が「進む」と言ってから、兵たちが荷をまとめ終えるまで、ずいぶん時間がかかった。
手が遅いのではなかった。誰もが、何度も同じ紐を結び直していた。
荷を背負って、岩の脇の道に並ぶ。閣下が先頭、その半歩後ろが私、ティムと兵たちが続く。
道標の横まで来たところで、後ろの足音が止まった。
振り返ると、兵たちが岩の手前で立ち止まっていた。誰も、命令されたわけではない。古参の兵が、道標の頭に手を置いている。苔を撫でるように、ゆっくりと。
「……ここから先へ行った奴の話を、俺は聞いたことがない」
別の兵が言った。
「先代様の隊だけだ。それも、帰ってこなかった」
黒い木々の向こうから、冷たい風が吹いてきた。岩のこちら側と向こう側で、何かが違うわけではない。同じ森、同じ道だ。それでも、兵たちの足は、見えない線の手前で止まっていた。
百年以上、ここで引き返してきた人たちの線だった。
閣下は何も言わなかった。兵たちを急かしもしなかった。ただ前を向いて、一人で、道標の横を通り過ぎた。
一歩。二歩。
岩の影から出たところで、閣下は振り返らずに立ち止まり、待った。
古参の兵が、道標から手を離した。
そして、歩いた。
次の兵が続き、その次が続いた。最後尾のティムが岩の脇を抜けた瞬間、赤毛の少年は両腕を突き上げた。
「越えた! 越えましたよ、団長!」
叫んでから、慌てて両手で自分の口をふさいだ。森の中で大声を出すなと、さんざん言われていたのだ。古参の兵が、その頭を軽くはたいた。はたいた手が、少し震えていた。
◇
岩の先の森は、手前より暗かった。
木の幹が太くなり、枝がさらに低く垂れ込める。空気が重く、息を吸うと、喉の奥に乾いた匂いが残った。
昼の休みに、朝の鍋の残りを入れておいた小さな瓶を開けると、私は思わず顔をしかめた。今朝、温め直したばかりの煮込みが、もう匂いを変えはじめている。封をせずに、栓をしただけの瓶だった。
「奥ほど、早いんだったわね」
副団長の言葉を思い出した。森の奥ほど魔素が濃くて、腐るのが早い。封を割ったものは、ここでは半日ももたない。
私は匂いの変わった煮込みを地面に埋めて、木箱の中の瓶を確かめた。封をしたままの瓶は、どれも朝と同じだった。
「開けたら、その場で食べきる。開けていない瓶には、触らないで」
兵たちに言うと、みんな神妙な顔でうなずいた。
◇
日が傾きかけたころ、木々の切れ目に、灰色の塀が見えた。
苔と蔓に覆われた、石の塀だった。人の背丈の倍ほどの高さで、ぐるりと円を描いている。崩れた門の両側に、石の柱が立っていた。
閣下が門柱の苔を手でこそげ落とすと、古い字が出てきた。
――第二哨所。
兵たちが、言葉もなく門柱を見上げた。
塀の内側には、屋根の落ちた兵舎が二つと、石で囲った井戸、竈の跡があった。竈の石には、煤がこびりついている。二百年前、ここで誰かが火を焚いて、飯を炊いていたのだ。
竈の脇の地面を、ティムが足で掘り返して何か拾い上げた。
「リゼル様、これ、瓶じゃないですか?」
ガラスのかけらだった。分厚くて、緑がかっていて、縁が丸く外へ反っている。口の広い瓶の、口のところだ。私が王都から持ってきた瓶と、形がよく似ていた。
かけらの縁に、指先ほどの黄色っぽいものがこびりついていた。爪で触ると、硬い。蝋だろうか。二百年も土の中にあったなら、もう色も匂いも分からない。
「二百年前の兵も、瓶で何かを運んでたのかもな」
古参の兵が言った。私はかけらを手巾に包んで、木箱の隅にしまった。
門の内側にも、道標が一本立っていた。引き返しの岩のものと同じ形の、腰の高さの石の柱。
――第三哨所まで一日。
「……あったんだな、本当に」
古参の兵がつぶやいた。
「爺さんの爺さんのころの話だと思ってた。森の中に哨所が並んでたなんて、おとぎ話だと」
その夜は、塀の内側で野営した。
瓶の煮込みを温めて配ると、誰からともなく笑い声が上がった。最初は小さく、それから堰を切ったように。兵たちは肩を叩き合い、互いの椀を覗き込み、「第二哨所で飯を食ってる」と何度も言い合った。笑いすぎて、ティムがむせた。
古参の兵が、剣の先で、門柱の根元の石に何かを刻みはじめた。私が覗き込むと、少し照れたように身体をずらして見せてくれた。
――ここまで来た。
その下に、八人の名前を刻むのだという。私の名前も入れてくれるそうだ。
閣下は、塀の上にいた。
崩れかけた石段を上ると、閣下は塀の縁に立って、北の暗がりを見ていた。夜の森は、昼よりさらに黒い。どこまでが木で、どこからが空なのかも分からない。
私が隣に立つと、閣下はしばらく黙っていた。
「父は、この先で戻らなかった」
それだけ言った。
私は何も言えなかった。何を言っても、この人がこの十年で自分に言い聞かせてきた言葉より軽くなる気がした。
だから、黙って隣に立っていた。
風が吹いて、塀の上の蔓が揺れた。閣下が、ふとこちらを見た。
「怖くなかったか。岩を越えるとき」
「怖かったです。でも、岩より、三日目の朝に瓶を開けるほうが怖かったです。腐っていたら、どうしようかと」
閣下は少しだけ目を細めた。笑ったのだと気づくまでに、少しかかった。
「君らしい」
会ってまだ十日ほどの人に、私らしいと言われるのは、不思議な気分だった。
しばらくして、塀を下りてから、私は木箱の瓶を数えた。帰り道の二日分は十分に足りる。割封の瓶を一つずつ指でなぞると、どの封も、朝と同じように固く口を閉じていた。
◇
翌朝、帰り道についた。
来た道を戻るだけなのに、兵たちの足取りは来たときと全然違った。軽い、というのとも少し違う。地面を確かめるように、一歩ずつ踏みしめて歩いていた。
引き返しの岩の脇を、今度は内側から通り過ぎる。古参の兵が、道標の頭をぽんと叩いた。
その少し先で、閣下が私の横に並んだ。
「砦に戻ったら、瓶は何個作れる」
「瓶と材料があるだけ、です。煮て詰めるのは、人手があれば何人でもできますから。封だけなら、私一人で一日に三百です」
閣下の足が、止まった。
振り返ると、閣下は珍しく、何か言いかけた口のまま固まっていた。黒い目が、私の顔と、私の手元の封蝋の棒を、行ったり来たりしている。
「……三百」
「はい。手が震えてくるので、それ以上は」
閣下は、ゆっくり息を吐いた。それから、何も言わずにまた歩き出した。
さっきより、少し速い足取りで。




