三日目の湯気
ウルスラさんは一日中、腕を組んで私の手元を見ていた。
大鍋に酢を注ぐと、「そんなに入れるのかい」と言った。塩をひと掴み足すと、「しょっぱくて食えたもんじゃないよ」と言った。肉と根菜を酢と塩でことことと煮て、熱いうちに口の広い瓶に詰め、コルクを打ち込み、湯を張った鍋に瓶ごと沈める。煮上がった瓶を布の上に並べて、栓の上に封蝋を落とし、印章を押して三つ数える。
四十を数え終わるころには、ウルスラさんは何も言わなくなっていた。ただ、私が鍋を下ろした後で、残った煮汁を匙ですくって舐め、しばらく黙っていた。
「……この酢、どこのだい」
「王都の、葡萄の酢です。祖母がずっと同じ店で」
ウルスラさんは「ふん」と鼻を鳴らして、それきり背を向けた。けれど次の日の夜明け前、砦の門で荷を積んでいると、白い頭巾が走ってきて、私の手に布包みを押しつけた。
「森は冷えるよ。食べな」
中は、焼きたての小さな丸パンだった。
◇
森へ入ったのは、閣下と私、見習い騎士のティム、それに兵が五人の八人だった。王都から運んだ瓶と、昨日詰めた瓶で八十。それと、比べるために、いつもの糧食の袋を一つ。
森の縁を越えた途端、空気が変わった。
昼なのに、薄暗い。黒い幹が空へまっすぐ伸びていて、頭の上で枝が重なり合い、光をほとんど通さない。地面は湿って、踏むたびに靴が少し沈む。古い道の跡が、木々の間を北へ続いていた。
「二百年前の道だ。荷車が入るのは、一日半の深さまで」
閣下は私の半歩前を歩きながら、言葉少なに教えてくれた。約束どおり、私は一歩も閣下の隣から離れなかった。離れようにも、閣下が私の歩く速さに合わせて歩くので、離れようがなかった。
ティムは赤毛の痩せた少年で、ずっと私の荷物を持ちたがった。
「リゼル様、瓶、重くないですか! 俺、持ちます!」
「ありがとう。でも割れると困るから、自分で持つわ」
「俺、絶対割りません!」
古参の兵が「お前が一番割りそうなんだ」と言って、ほかの兵が笑った。笑い声は、黒い木々に吸い込まれるようにすぐ消えた。
一日目の夜は、道の脇の少し開けた場所で野営した。夕食は、いつもの糧食の堅パンと、ウルスラさんの丸パンだった。森に入ったその日なら、まだ何でも食べられる。
「いつもは、一日目と二日目でいつもの糧食を食いきって、三日目は水だけで歩いて、日暮れまでに森の外へ出るんです」
古参の兵が、堅パンをかじりながら教えてくれた。
「途中で足止めされたら?」
「四日目も水だけですな。帰り道で倒れる奴が出る」
遠くで、獣の遠吠えが長く尾を引いた。兵たちが一斉に槍を引き寄せる。灰牙だ、と誰かが小声で言った。夜に群れで来る、大きな灰色の獣だそうだ。
閣下は焚き火の向こうで剣を膝に置いたまま、私が瓶の木箱を抱えて座り直すのを見ていた。
「寝ろ。見張りは俺が立つ」
閣下は本当に、夜通し起きていた。
二日目の昼、木々の間に、大きな岩が見えた。
家ほどの大きさの、苔に覆われた灰色の岩だった。その脇に、腰の高さの石の柱が立っている。表面に、古い字が刻んであった。
――第二哨所まで半日。
「引き返しの岩だ」
閣下が言った。兵たちは、誰も岩より先へ目を向けなかった。
「百年以上、辺境騎士団はここで引き返してきた。越えたのは十年前の父の隊だけで、戻らなかった。俺も、ここまでしか来たことがない」
閣下は岩の先の、暗い道をしばらく見ていた。それから振り返った。
「今夜はここで野営する。三日目を見てから決める」
◇
二日目の夜、焚き火を囲んでいると、ティムが鼻をひくつかせた。
「……なんか、匂いません?」
いつもの糧食の袋からだった。古参の兵が袋の口を開けて、中を覗き、すぐに閉じた。
「始まった。二日目の夜は、いつもこうだ」
兵たちが黙った。焚き火のはぜる音だけが響いた。私は瓶の木箱を膝に引き寄せて、封蝋を一つずつ指でなぞった。どの封も、割れても欠けてもいない。
その夜は、あまり眠れなかった。
◇
三日目の朝。
古参の兵が、いつもの糧食の袋を焚き火の前に置いて、口を開けた。
中のものを、地面にあける。
堅焼きのパンが、黒かった。塩漬けの肉が、黒かった。砦の倉で見たのと同じ、炭のような黒。指でつつくと、パンの角がぼろりと崩れた。焦げたような、乾いた匂いがする。
「いつもどおりだ」
兵の一人が、吐き捨てるように言った。
みんなの目が、私の木箱に集まった。
私は瓶を一つ取り出した。出発の前の日に砦の台所で詰めた、酢と塩で煮た肉と根菜の瓶だ。琥珀色の封蝋に、蜂の紋。
指で封蝋の縁を押す。ぱきり、と小さな音がした。コルクを抜く。
酢の香りが、ふわりと立った。
瓶の中の肉は、詰めた日と同じ茶色だった。根菜の橙色も、煮汁の色も、何も変わっていない。黒いところは、どこにもなかった。
古参の兵が、手に持っていた匙を取り落とした。
私は小さな鍋に瓶の中身をあけて、焚き火にかけた。煮汁がふつふつと泡を立てはじめると、湯気と一緒に、肉と酢の匂いが岩の周りに広がった。
誰も、何も言わなかった。
椀によそって、まず閣下に、それから兵たちに配った。ティムは椀を両手で持ったまま、湯気を顔に浴びて、しばらく動かなかった。
「……三日目に、湯気の立つ飯を見たの、初めてです」
ティムがそう言って、一口すすった。そして顔をくしゃくしゃにした。
「すっぱい」
「ごめんなさい。酢を強くしないと、瓶に入れられないの」
「すっぱいけど、うまいです……」
ティムは泣きそうな顔で、残りを一気にかき込んだ。それから空になった椀を差し出した。
「もう一杯、いいですか」
ほかの兵たちも、それぞれのやり方で食べていた。匂いを何度も確かめてから口に運ぶ人。一口ごとに黒い袋のほうを見る人。何も言わずに、ただ匙を動かし続ける人。
古参の兵は、椀を持ったまま、引き返しの岩の道標を見ていた。
「親父も、爺さんも、ここで黒いパンを捨てて帰ったんだ」
ぽつりと言って、また一口食べた。
「三日目に、温かい飯を食った奴がいるか。この岩の下で」
誰も答えなかった。みんな、岩の下で湯気の立つ椀を抱えていた。
閣下は一口食べて、椀を膝に置いた。地面の黒いパンと、私の手の中の瓶を、交互に見ている。
それから、もう一口食べた。
「旨い。王都で食べた桜桃より、酢が強いな」
「肉は、酢をたくさん使わないと瓶に入れられないんです。桜桃は、少し足しただけで」
「どちらも旨い」
閣下は椀を空にすると、立ち上がった。
岩の脇を通って、道標の前に立つ。苔に覆われた古い字を、手袋の指でなぞる。第二哨所まで、半日。
その先の暗い道を、閣下はまっすぐに見ていた。
「進む」




