三日の線
北へ向かうほど、街道の脇の麦畑が牧草地に変わり、牧草地が石だらけの荒れ地に変わっていった。
五日の旅の間、私は宿に着くたびに木箱を開けて、藁の中の瓶を一つずつ確かめた。割れたものは一つもない。封蝋も欠けていない。閣下は何も言わずに、毎晩それを横で見ていた。旅の半ばからは、閣下のほうが先に木箱の釘を抜いて待っていた。
五日目の夕方、丘を一つ越えたところで、閣下が馬を止めた。
「あれだ」
丘の下に、灰色の石の町があった。辺境の町ノルトハイム。その北の外れに、角ごとに塔を持つ砦が建っている。そして砦の向こう、地平線の端から端までを、黒い帯がふさいでいた。
森だった。
王都の近くの林とはまるで違う。夕日を浴びているのに、そこだけ光を吸い込んだように黒い。
「三日森」
ヤーナが小さく言って、自分の腕をさすった。
◇
砦の門をくぐると、兵たちが一斉に駆け寄ってきた。
「団長、お帰りなさい!」
「王都はどうでした、糧食の――」
そこで、兵たちの目が閣下の後ろの私に移って、止まった。王都の令嬢が、侍女を連れて、木箱を積んだ馬に乗っている。説明のしようのない光景だったと思う。
人垣の後ろから、太い腕の男が出てきた。白髪まじりの茶色の髪を短く刈っていて、片方の耳が欠けている。
「団長。嘆願はまた断られたと、早馬で聞きましたが。……そちらは」
「メーレン嬢だ。糧食係として来てもらった。ブレンナー副団長だ。砦の補給を任せている」
副団長は私を頭から足まで眺めた。
「糧食係」
「はい。瓶詰めを――」
「台所のお嬢さんに、何ができる」
はっきりした声だった。周りの兵たちが、気まずそうに目をそらす。
「失礼、メーレン嬢。だが、俺は二十年この砦にいる。森の三日の線を越えて、戻ってきた隊はない。二百年そうだった。王都の瓶で越えられるなら、とうの昔に誰かが越えてる」
「オットマー」
閣下が名を呼ぶと、副団長は口を閉じた。けれど引き下がりはしなかった。
「団長がお決めになったなら、従います。ただ、先に見ていただきたいものがある。糧食係殿に」
糧食係殿、という呼び方には、たっぷり皮肉が込められていた。
◇
副団長が私を連れていったのは、砦の北側の、石造りの倉だった。扉を開けた途端、鼻を突く匂いがした。
麻袋が、壁際に積み上げてある。副団長が一つを開けて、中身を床にあけた。
黒い塊が転がり出た。堅焼きのパンだったものと、塩漬けの肉だったもの。どちらも炭のように黒く、指で押すと崩れそうだった。
「森から持ち帰った糧食だ。三日目の朝には、どれもこうなる。黒い保存庫と、兵は呼んでる。捨てずに積んであるのは、いつか誰かがこれを何とかしてくれるかと思ってな。……十年、誰も何とかしなかったが」
私は膝をついて、黒いパンに顔を近づけた。
「お嬢様、お手が汚れます」
ヤーナが慌てたけれど、私は匂いを嗅いだ。
黴の匂いではなかった。祖母の帳面には、腐り方がいくつも書いてある。白い黴、青い黴、酸っぱくなる腐り方、ぬるりとする腐り方。どれとも違う。焦げたような、乾いた匂い。
「森の気だ」
副団長が言った。
「魔素、と学者は呼ぶ。森の中に満ちていて、かつて生きていたものを三日で黒くする。森の奥ほど濃くて、早い」
「では、森の中で狩りをすれば……」
「森の魔物の肉を食えば、森酔いで倒れる。吐いて、立てなくなって、三日は寝込む。草の実も同じだ」
「森の外から、食べ物を運び続けるのは」
「やった。運び手を何組も出した。奥ほど腐るのが早いから、二日の深さより先には一度も届かなかった。届く前に、魔物に食われた組もある」
副団長の答えは、一つずつ短かった。何度も同じことを聞かれ、何度も同じ答えをしてきた人の言い方だった。
倉の入り口で、若い兵が一人、こちらを覗いていた。副団長が「見せてやれ」と言うと、兵は気まずそうに左手を差し出した。小指が、根元からない。
「森で引っかかれて。翌朝には黒くなってて、切るしかなかったんです」
「森の中じゃ、傷も腐る。だから怪我をした兵は、すぐ森の外へ出さなきゃならない」
私は兵の手を見て、それから床の黒いパンを見た。
三日で、食べ物が腐る。傷も腐る。だから兵は、一日半の深さから先へ行けない。
祖母の瓶は、何年も腐らなかった。けれどそれは、王都の屋敷の地下での話だ。森の中で、私の封が魔素を止められるかどうかは、試してみなければ分からない。
◇
私とヤーナに用意された部屋は、砦の南側の客間だった。窓が大きく、森とは反対の、町の屋根が見える。暖炉にはもう火が入っていて、寝台の脇に、木箱を置くための台まで据えてあった。
「お嬢様。これ、急いで作らせた台ですよ。まだ木の匂いがします」
ヤーナが台を撫でて、意味ありげに私を見た。私は台の上に木箱を下ろして、もう一度、瓶の封を確かめた。
夕食の前に、閣下が私と副団長を執務室に呼んだ。
「試す。明日、瓶を詰める。明後日、森へ入る。八人で五日。三日目に、瓶がどうなるかを見る」
「団長自ら行かれるので?」
「俺が見なければ、誰も信じない」
副団長は唸ったけれど、反対はしなかった。
「私も行きます」
私が言うと、二人が同時にこちらを見た。
「森の中で、封にどんな不具合が出るか分かりません。私にしか分からないことがあるかもしれません。三日目の瓶を、自分の目で見たいのです」
「冗談じゃない。王都の令嬢を森に入れて、何かあったら――」
「俺の隣にいろ」
閣下が、副団長の言葉にかぶせるように言った。
「森の中では、一歩も俺の隣から離れるな。それが条件だ」
「……団長」
「彼女の封だ。彼女が見るべきだ」
副団長は長い息を吐いて、天井を仰いだ。
部屋を出ると、廊下の先から威勢のいい声が飛んできた。
「若様! お帰りなら台所に一言くださいよ! 夕飯の数が合わないじゃないか!」
白い頭巾をかぶった、腕の太い女の人だった。頬が赤い。
「料理番のウルスラだ。三十年、砦の台所にいる」
閣下が紹介すると、ウルスラさんは私を見て、目を細めた。
「王都のお嬢さんが、何の用でこんな砦に」
「明日、台所をお借りしたいのです。瓶を詰めますので」
ウルスラさんの眉が、ぴくりと上がった。
翌朝、まだ暗いうちに台所へ行くと、ウルスラさんはもう大鍋の前に立っていた。私が祖母の帳面を開いて竈の横の台に置くと、ウルスラさんは腕を組んだまま、低い声で言った。
「あたしの台所で、何を煮る気だい」




