二年前の桜桃
夜会の翌朝、私は屋敷の地下で、瓶の札を書き直していた。
昨夜、辺境伯閣下の問いに、私は答えられなかった。答えようとしたところで侯爵夫人が「今夜はお開きに」と手を叩き、使用人たちが客を出口へ流し始めたからだ。人の波に押されて離れていく間際に、閣下は「明日、伺う」とだけ言った。
本当に来るのかしら、と思いながら、私は地下の棚に並んだ瓶を数えていた。三百と少し。棚の端ごとに、詰めた年と中身を書いた札がかけてある。
「お嬢様」
侍女のヤーナが、石段を駆け下りてきた。頭巾から黒い巻き毛がはみ出している。
「いらっしゃいました。辺境伯様です。旦那様が、応接間でたいへんお困りのお顔をなさっています」
応接間に上がると、父が椅子の端に浅く腰かけて、向かいの客に茶を勧めていた。客は昨夜と同じ苔色の外套のまま、茶には手を付けずに座っていた。
「ノルトハイム閣下。昨夜は、娘が失礼を」
「失礼は受けていない」
閣下は短く言って、立ち上がった。
「メーレン嬢。昨日の問いの答えを聞きに来た。瓶を見せてもらえるか」
父が「瓶など、人様にお見せするものでは」と言いかけたけれど、閣下はもう扉のほうを向いていた。
地下へ案内すると、閣下は石段の途中で足を止め、棚の列を見渡した。
「全部、君が?」
「祖母が亡くなってからは、私が。四年前からは、ヤーナも手伝ってくれています。果物の砂糖煮、野菜の酢漬け、乾かしたパン、酢と塩で煮た肉。祖母の帳面にあるものだけです」
閣下は棚の端から端まで歩き、札を一枚ずつ読んでいった。そして一番奥の棚の前で止まり、一つを指さした。
「これを開けてもいいか」
二年前の夏に詰めた、桜桃の砂糖煮だった。
「どうぞ。割封ですので、どなたでも開けられます」
私は瓶を棚から下ろし、閣下に渡した。琥珀色の封蝋の上に、蜂の紋がある。
「爪で、蝋の縁を押してみてください」
閣下が親指で押すと、封蝋はぱきりと小さな音を立てて割れた。昨夜の誓約書の封とは違う。割封は、祖母に教わった封の押し方の一つだった。食べる人が自分で開けられるように、割れるつもりで押す封。
コルクの栓を抜くと、甘酸っぱい香りが地下に広がった。瓶の中の桜桃は、詰めた日と同じ深い赤のまま、蜜の中に沈んでいる。
ヤーナが急いで匙を持ってきた。閣下は一粒すくって口に入れ、しばらく黙っていた。
「旨い」
それだけ言って、もう一粒食べた。
昨夜のことがあったから、私は何を言われるのかと身構えていたのだけれど、閣下は三粒目を飲み込んでから、こう聞いた。
「酢が入っているな。砂糖煮に、なぜ酢を入れる」
「祖母の決まりです。瓶に入れていいのは、酸いもの、塩の強いもの、乾いたものだけ。果物は酸いものですけれど、念のため少しだけ足します」
「煮る長さは」
「果物は、煮立ったらすぐ火を引きます。煮すぎると形が崩れて、香りが飛びますので。野菜の酢漬けは一刻半です」
「瓶ごと煮るのか」
「はい。詰めて、栓をして、湯の鍋に沈めて煮ます。煮終わってから、栓の上に封をします」
閣下は瓶の中を覗き込み、それから私の手元の封蝋の棒を見た。昨夜と同じ目だった。
「北の辺境に、森がある」
閣下は、桜桃の瓶を両手で持ったまま話し始めた。
王国の北の国境に広がる大森林を、辺境の人は「三日森」と呼ぶ。森の中に持ち込んだ食べ物は、パンも肉も果物も、三日目に黒く腐る。二日目の夜には味が変わり、三日目の朝には崩れて、もう食べられない。
「兵は三日分の食べ物を背負って森へ入る。だが三日目の朝には食べられなくなる。腹がもつのは二日と少しだ。一日半の深さで折り返せば、帰りの最後は水だけで歩くことになる。だから、それより奥へは行けない」
一日半の深さに大きな岩があって、辺境騎士団は百年以上、その岩で引き返してきた。岩を越えて戻った隊は、ない。森の縁から運び手を出して食べ物を継ぎ足すやり方も、何度も試して続かなかった。
「蝋で目止めした壺も、塩漬けの樽も試した。三日目に、同じように黒くなった」
「蝋で閉じても、ですか」
「蝋で閉じても、だ」
閣下はそこで少し間を置いた。
「十年前、父が、蝋で目止めした壺を持って岩の先へ遠征した。三日目の朝、壺の中まで黒くなった。隊ごと戻らなかった」
淡々とした言い方だった。だからかえって、地下の空気が冷たくなった気がした。
「毎年、王都へ糧食の改良を頼みに来ている。毎年断られる。昨夜も、騎士団長に挨拶をして帰るつもりだった」
閣下は瓶を棚の縁に置いた。
「君の封をした瓶を、森に入れて三日置きたい。腐らなければ、辺境騎士団の糧食係として雇う。給金は騎士と同じだけ出す。瓶と蝋と材料は、砦が持つ」
後ろで、父が息をのむ音がした。いつの間にか石段の下まで来ていたらしい。
「閣下、お申し出はありがたいのですが……娘は昨夜、ザイフェルト侯爵家と縁が切れたばかりです。そのうえ辺境へなど行かせては、侯爵家に睨まれます。書記局の席も危うい」
閣下は父のほうを向いた。
「正式に、客分として申し入れる。辺境伯家の名で書状を出す。伯爵家の体面は保てるはずだ」
父は口を閉じ、私の顔を見た。私は、父が何か言うのを待った。
父の口が、何度か開きかけては閉じた。やがて、肩の力を抜くように息を吐いた。
「……好きにしなさい」
私は棚の瓶を見た。
昨夜、エーリク様との婚約には封をした。封をしたものは、もう振り返らない。祖母がそう教えてくれた。だから昨夜のことは、もう考えなくていい。
考えていたのは、閣下の話だった。三日目の朝に、黒く崩れたパンを手にする兵のこと。お腹を空かせたまま、岩の前で引き返す人たちのこと。
お腹が空いている人がいるなら、瓶を持っていけばいい。祖母の瓶は、そのためのものだった。
「お受けいたします、閣下。三日、森に置いてください」
「お嬢様が行かれるなら、私もお供します」
ヤーナが、私が言い終わる前に言った。
閣下はうなずき、桜桃の瓶にもう一度栓をした。割れた封蝋のかけらを、指でつまんで眺めている。
「この瓶、もらっていいか」
「どうぞ。ただ、封を割ったものは、早めに召し上がってください」
「分かった」
閣下はその瓶を外套の内側に抱えるようにして帰っていった。辺境伯の馬車ではなく、一頭の馬で来ていたのだと、門まで見送ったヤーナが教えてくれた。
翌朝、藁で包んだ四十の瓶を木箱に詰めて、馬の背に積んだ。祖母の帳面と、封蝋の棒をひと束と、印章。ヤーナの荷物のほうが、私の荷物より大きかった。
門の前で父が、何か言いたそうな顔で立っていた。結局、「体に気をつけなさい」とだけ言った。
閣下が馬上から、北の街道を指した。
「砦まで五日だ」




