封をするだけの加護で
「封をするだけの加護で、騎士の妻が務まるか」
大広間の楽団が、ちょうど曲の切れ目だった。だからエーリク様の声は、端の席の客にまでよく届いた。
ザイフェルト侯爵家の王都屋敷。今夜はエーリク様が王都騎士団の第三中隊長に上がったお祝いで、天井の燭台では蝋燭が惜しげもなく燃えている。私は、婚約者として隣に立つはずの場所から一歩引いたところで、その声を聞いた。
「リゼル・メーレン。君との婚約は、今夜限りで破棄する」
客たちのささやきが、波のように広がった。
「メーレン嬢の加護をご存じか。【封緘】だそうだ」
「まあ、書記の家の……」
「手紙に蝋を押すだけの加護でしょう?」
エーリク様は白い制服の金の飾り緒を揺らして、隣の令嬢の手を取った。燭台の明かりを受けて、淡い金髪が光っている。
「紹介しよう。宮廷魔導師長のご令嬢、イゾルデ・メルツ嬢だ。加護は【灯火】。騎士の妻にふさわしい加護だ」
イゾルデ嬢は、まっすぐ私を見た。気の強そうな目だったけれど、笑ってはいなかった。
「三年、我慢してきた。人前で君の加護を口にされるたびに、私がどんな顔をしていたか分かるか。書記の家の下働きは、ザイフェルト家には要らない」
客の何人かが、扇の陰で笑った。私の加護を人前で口にしているのは、今、エーリク様ご本人なのだけれど。
エーリク様は、従者から一枚の紙を受け取った。婚約破棄の誓約書だ。下の欄には、もう父君のザイフェルト侯爵と、エーリク様ご本人の署名がある。
「メーレン伯爵。ここに署名を」
人垣の後ろから、父が押し出されるように前へ出た。王都の書記局長を務める父は、侯爵家の前ではいつも背中が少し丸くなる。父は誓約書と私の顔を一度ずつ見て、それから黙って羽根ペンを取った。
次は私の番だった。
誓約書を受け取って、頭から読む。婚約の日付、両家の名、破棄の日付。その下に、破棄の理由の欄がある。
――ザイフェルト家の申し出による。
そう書いてあった。間違いのない、正しい記録だ。
私は署名した。指先は震えなかった。
悲しいかどうかは、まだ分からない。三年、婚約者だった人だ。けれど、それを考えるのは今ではない気がした。
祖母の声を思い出す。
『終わったものには、封をしなさい。そうしたら、振り返らずに済むから』
祖母は北の生まれの人で、私に瓶詰めを教えてくれた。瓶に詰めて、栓をして、湯で煮て、最後に封蝋を押す。祖母の帳面どおりに十歳から続けてきたその手順の、一番最後が封だった。
「エーリク様。この誓約書は、書記局に正本として納めるものですね」
「それがどうした」
「正本には封が要ります。承知いたしました。では、封をいたします」
エーリク様が、鼻で笑った。
「好きに押せ。最後の仕事だ」
私は誓約書を三つに畳んだ。端と端をきちんと揃える。ドレスの隠しから、琥珀色の封蝋の棒を一本取り出した。いつも二、三本は持ち歩いている。瓶の棚の前で困らないように。
近くの燭台に棒の先をかざすと、蜜蝋の甘い匂いが立った。溶けた蝋を、紙の合わせ目にとろりと落とす。それから首から下げた真鍮の印章を外した。祖母の形見で、紋は蜂が一匹。
蝋に押しつけて、三つ数える。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
指先から何かが紙へ流れていく、いつもの感じがした。
祖母はこの封の仕方を二つに分けて呼んでいた。瓶に使う、誰でも指で割って開けられる封を割封。二度と開けてはいけないものに使う、私が解くまで開かない封を固封。瓶を勝手に捨てられないよう、地下の棚の扉にだけ使ってきた固封を、私は誓約書に押した。
印章を離すと、琥珀色の蝋に、蜂がくっきりと残っていた。
「どうぞ。これで、書き換えのきかない正本です」
誓約書を書記に渡そうとしたとき、扇の閉じる音がした。
「お待ちなさい」
エーリク様の母君、ザイフェルト侯爵夫人だった。夫人は書記の手から誓約書を取り、封の脇から透かすように理由の欄を見て、眉をひそめた。
「……『ザイフェルト家の申し出による』。これでは、我が家が一方的に破棄したと記録に残るではありませんか」
事実、そうなのだけれど。
「書記。理由を『メーレン家の娘の不行き届きによる』と書き直しなさい。封など割ってしまえばいいわ。書記の家の封など、開けられたことが分かるだけのものでしょう」
ザイフェルト家の書記が、困った顔で誓約書を受け取った。爪を封蝋の縁にかける。
かからなかった。
書記はもう一度、今度は力を込めて爪を立てた。爪のほうが白くなった。懐から小刀を出して、蝋と紙の間に刃先を入れようとする。刃先が、つるりと滑った。
「何をしている。貸せ」
エーリク様の後ろに控えていた部下の騎士が、腰の短剣を抜いた。誓約書を卓に置き、紙の端に刃を当てて、引く。
紙一枚が、切れなかった。
騎士は刃を確かめ、もう一度、体重をかけて引いた。卓の上で誓約書が少しずれただけで、紙には筋ひとつ付かない。
大広間が、しんと静まった。楽団の誰かが弦に触れて、慌てて押さえる音がした。
私も少し驚いていた。地下の棚の扉を誰かが刃物でこじ開けようとしたことなど、一度もなかったから、自分の封がこんなに固いとは知らなかった。
でも、驚いた顔をする場面ではないので、私は侯爵夫人に頭を下げた。
「その封は、私が解くまで開きません。終わったものですので、解くつもりもございません」
侯爵夫人の扇が止まった。エーリク様は口を開けかけて、何も言わずに閉じた。イゾルデ嬢だけが、誓約書の琥珀色の封を、じっと見つめていた。
人垣の中で、父がこちらを見ていた。書記局で何十年も封を見てきた父が、初めて見るものを見る顔をしていた。
「署名は、済んでおります」
父が、誰にともなく言った。声が少しかすれていた。
「破棄は成っております。……ただ、その正本は、もう誰にも書き換えられませんな」
その人垣が、割れた。
壁際から、男の人が一人、大広間の真ん中へ歩いてくる。夜会の礼服ではなく、深い苔色の外套を着たままだった。背が高く、鉄色の髪を短く刈っていて、左の手の甲に古い爪痕がある。今夜、私が広間に入ってから、壁際で一度も誰とも話していなかった人だ。
「北の辺境伯だ」
「ノルトハイムの? 毎年秋に、王都へ頭を下げに来る……」
「田舎の辺境伯が、なぜここに」
「騎士団の祝いだからな。儀礼で呼ばれただけだろう」
ささやきが、その人の背中を追いかける。辺境伯――カスパル・ノルトハイム閣下は、ささやきにも、侯爵夫人にも、エーリク様にも目を向けなかった。卓の上の誓約書さえ見なかった。
黒い目が、私の手元の封蝋の棒と、首から下げた真鍮の印章を見て、それから私の顔で止まった。
「一つ、聞きたい」
低い声だった。
「その封で、瓶の口を閉じられるか」
お読みいただきありがとうございます。封をするだけと笑われた加護で、彼女はこれから辺境の魔の森の瓶を閉じていきます。続きが気になったら、ブックマークと、下の☆での評価で応援してもらえると嬉しいです。




