蜂と葉の輪
古文書館の棚には、封をされたままの束が、数えきれないほど眠っていた。
紐で括った紙の束の結び目に、一つずつ封蝋が押してある。赤いもの、茶色く褪せたもの、黒ずんだもの。どれも、割られていない。
「この棚の封は、納めたときの封です。開けた束には、書記局が新しい封を押し直します。割れた封のままの束は、一つもありません」
前を歩くカティアさんが、言い切るように説明した。
王宮の北の棟にある、王立の古文書館だった。父に頼んで入る許しをもらうと、父は案内に書記を一人付けてくれた。局でいちばん若い封緘持ちで、古文書館の棚の並びを、いちばんよく知っているから、と。
それが、カティアさんだった。
「局長からは、二百年前の北の辺境の記録、と伺っております」
「はい。辺境伯家に仕えていた家の、紋の記録を探したいのです」
「紋章録なら、奥の棚です」
カティアさんは、迷わずに通路を曲がった。後ろで、閣下が天井の低い梁に頭をぶつけないよう、身をかがめてついてくる。
◇
奥の棚の前で、カティアさんは脚立を立てながら、背中を向けたまま言った。
「メーレン様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「メーレン様の封は、何を閉じようとして、押してきた封ですか」
書記局で、何か言いかけてやめた人の声だった。
「瓶です。何年も置いておく瓶の口を、開けるその日まで閉じておく封。それから、瓶を勝手に捨てられないように、地下の棚の扉に押す封です」
「何年も」
「祖母が言っていました。加護は使うほど強くなるけれど、何を閉じようとして使うかで、伸び方が違うと。瓶の季節には、一日に百を超えることもありました」
カティアさんの手が、脚立の上で止まった。
「私は、去年から、毎日、勅書の写しと公文書に封をしてきました。開けられたことが分かれば、それでいい封です」
カティアさんは、少しだけ振り返った。灰色の目が、私の指先の赤い跡を見ていた。
「私の封は、開けられたことが分かるだけです。それでは、森では役に立ちませんか」
「分かりません」
私は、正直に言った。
「でも、毎日、重いものを閉じるつもりで押せば、変わるかもしれません。私の封も、最初から固かったわけではないと思います」
カティアさんは、何も言わずに前を向き、棚の上の段から、分厚い帳面を一冊引き出した。
◇
北の辺境の紋章録は、革の表紙がひび割れ、頁の端が茶色く焼けていた。
辺境伯家の狼の横顔の紋から始まって、仕えていた騎士の家、御用を務めた商人の家、職人の家の紋が、墨で写してある。カティアさんは一頁ずつ、紋の形と、横に書かれた小さな字を確かめながらめくっていった。
途中で、閣下が身を乗り出した。
「これは、俺の家の古い紋だ。狼の向きが逆だ」
「大崩れより前の写しです。紋の向きは、代替わりで変わることがあります」
カティアさんは、手を止めずに答えた。
頁が進んで、職人の家の紋が並ぶあたりで、カティアさんの指が止まった。
「メーレン様」
一匹の蜂を、葉の輪が丸く囲んでいた。
墨の線はかすれていたけれど、羽の筋まで写してあった。第四哨所跡の地下で見た、二百年前の瓶の封と、同じ紋だった。
横に、古い字で書いてある。
――ビーネンフェルト家。辺境伯家の封蝋係。哨所の糧食の瓶に封をするを務めとす。
閣下が、息を呑む音がした。
「……俺の家に、仕えていた家か」
私は、その頁から目を離せなかった。
「ビーネンフェルト。北の古い言葉で、蜂の野だ」
閣下が、低い声で言った。
カティアさんが、同じ棚から、もう一冊、薄い綴りを引き出した。辺境伯家に仕えた家の名を、年ごとに並べた名簿だった。
「同じ名を、年の順に追います」
カティアさんの指が、名簿の列を下っていく。ビーネンフェルト。ビーネンフェルト。何十年も、同じ場所に同じ名が並んでいる。
ある年で、指が止まった。
「大崩れの年です」
その年の列に、ビーネンフェルトの名はあった。次の年の列には、なかった。その次の年にも、その後にも。
「消えています。理由は、書いてありません。死んだとも、去ったとも」
カティアさんは、名簿の余白まで目で確かめてから、首を振った。
◇
「少し、席を外していただけますか」
私が言うと、カティアさんは何も聞かずに、うなずいた。
「私は、何も見ておりません。脚立を片づけてまいります」
カティアさんの足音が、棚の向こうへ遠ざかった。
私は、腰の袋から祖母の帳面を出し、裏表紙の下から、四つに畳んだ紙を取り出した。黄ばんで、端の欠けた紙。祖母の細い字。北の家の紋。誰にも見せるな。
紋章録の頁の横に、そっと並べた。
蜂の形。羽の筋の数。蜂を囲む葉の数。葉の輪の、切れ目の位置。
同じだった。
閣下が、私の肩越しに、二つの紋を見比べていた。長い間、何も言わなかった。
「君の祖母は、ビーネンフェルトの者だったのか」
「分かりません。祖母は、北の生まれとしか言いませんでした」
私は、紙を畳み直した。指先が、冷たかった。
「でも、祖母は、この紋を知っていました。誰にも見せるなと書くほど、よく」
祖母の印章の蜂には、葉の輪がない。蜂が一匹だけだ。輪を外した蜂を、祖母は、自分の印章にしていた。
閣下が、紋章録の頁に指を置いた。辺境伯家の封蝋係、と書かれた行の上に。
「二百年前、俺の家の者が、この家の瓶を森の奥へ運ばせていた」
閣下の声は低かった。
「そして、大崩れの年に、この家は消えた。俺の家の記録は、火事で焼けた」
◇
紋章録を棚に戻すとき、通路の奥から、杖の音が近づいてきた。
古文書館の司書だった。背が曲がり、真っ白な髪を後ろで束ねた、ひどく年を取った人だ。入り口で、私たちに許しの札を確かめた人だった。
「北の紋章録を、お探しでしたか」
老司書は、棚に戻した帳面の背を、指でなぞった。
「どの家を」
私は、少し迷ってから答えた。
「ビーネンフェルト、という家です」
老司書の指が、帳面の背の上で止まった。
皺だらけの顔が、ゆっくりと私のほうを向いた。白く濁りかけた目が、私の顔を、それから首から下げた真鍮の印章を見た。
「ビーネンフェルト。その名なら、前にも一度、調べに来たご婦人がおりましたな。私がここへ来たばかりのころですから、四十年は前になりますか」
老司書は、遠いところを見るように目を細めた。
「北の訛りの、ご婦人でした。今のあなたと同じ頁を開いて、長いこと、黙って座っておられた」




