隣に立つ人
若草色のドレスの裾に、繕った跡があった。
三年前に仕立てたドレスだ。婚約の披露の夜会のために。ふた月前、ザイフェルト家の大広間で婚約を破棄されたときも、これを着ていた。裾のほつれは、辺境へ発つ前の晩に、自分で繕った。
宿の部屋の寝台に広げて、私はそれを見下ろしていた。
王家の夜会は、今夜だった。冬の初めに毎年開かれる、王宮の大広間の夜会。王の御前に出た日の夕方に、侍従が招きの書状を届けてきた。辺境伯閣下と、メーレン嬢に。
「お嬢様。それを、お召しになるおつもりですか」
ヤーナが、扉のところで腕を組んでいた。
「ほかに、持ってきていないもの」
「そうですか」
ヤーナは、なぜか口元をむずむずさせていた。それから、廊下に向かって声をかけた。
「どうぞ、お入りください」
入ってきたのは、白髪の小柄な婦人と、大きな平たい箱を抱えた若い弟子だった。婦人は私に深く頭を下げた。
「王都の仕立て屋でございます。ノルトハイム辺境伯閣下から、ご注文を承っておりました」
弟子が箱の蓋を開けた。
深い苔色の絹だった。光の加減で、森の奥の葉の色にも、閣下の外套の色にも見えた。襟元と袖口と裾に、琥珀色の糸で刺繍がしてある。小さな蜂が、裾をぐるりと一周、飛んでいた。
私は、言葉が出なかった。
「王都に着いた日に、閣下がお店にいらっしゃいまして。寸法は、侍女の方から」
「ヤーナ」
「着いた日の夕方に、宿の帳場で、辺境伯様に聞かれたんです。お嬢様の寸法を知っているか、って」
ヤーナは、もう目を潤ませていた。
「お嬢様、ずっと、あの若草色の一着だったじゃないですか。婚約していた三年間、新しいのを一着も仕立ててもらえなくて」
ヤーナの声が、途中で詰まった。
「刺繍の蜂は、閣下のご指示です。封蝋の紋と同じものを、と」
仕立て屋の婦人が、静かに言い添えた。
◇
王宮の大広間は、ザイフェルト家の大広間より、ずっと広かった。
天井の燭台が何段も重なり、楽団の音が高い天井に響いている。扉をくぐると、入り口の近くにいた客たちが、一斉にこちらを振り返った。
「封の令嬢だ」
「隣は、北の辺境伯か。あの田舎の……」
「婚約を破棄された令嬢を、辺境伯が拾ったのですって」
ささやきは、ふた月前と同じ種類のものだった。ただ、少しだけ違うものも混じっていた。
「あのドレス、辺境伯の外套と同じ色ではなくて?」
閣下は、いつもの深い苔色の外套を着ていた。夜会の礼服ではなく。私のドレスと並ぶと、同じ森から切り出した色に見えた。
「閣下。このドレスは」
「辺境の色だ」
閣下は、それだけ言った。
「君は辺境騎士団の者だ。王都の夜会でも、そう見えるほうがいい」
それから、広間にいる間、閣下はずっと私の隣を離れなかった。
◇
王の御前での話は、もう王都の貴族の間に広まっていた。
最初に近づいてきたのは、葡萄酒の領地を持つという子爵だった。
「メーレン嬢。お噂はかねがね。実は我が家の葡萄酒の樽にも、ぜひ、その封を――」
「瓶は、辺境騎士団の糧食だ」
閣下が、私より先に答えた。
「森の奥へ運ぶ分しか作っていない。樽には封をしない」
子爵は、笑顔のまま固まって、離れていった。
次は、商会を持つ伯爵家の当主だった。
「辺境の瓶とやらを、王都で売り出すおつもりは。我が商会なら、王都じゅうの――」
「森の中で腐らないことが、瓶の値打ちだ。王都の中なら、どの瓶詰めも腐らない」
伯爵は、何か言い返そうとして、言葉を探しているうちに、閣下がもう別のほうを向いていた。
その次も、その次も、同じだった。私の封を欲しがる人には、閣下が瓶の話だけをして、それで終わった。瓶の話以外は、何もしなかった。
何人目かを見送ったあと、私は小さな声で言った。
「閣下。皆さま、私の封のことを聞きにいらしているのですけれど」
「知っている」
「瓶のお話しかなさらないのですね」
「瓶の話なら、いくらでもできる」
閣下は、給仕の盆から酢漬けの小蕪を一つ取って、口に入れた。
「……この酢より、君の酢のほうが旨い」
私は、扇がないので、手袋の指で口元を押さえた。笑いそうになったのだ。
楽団の曲が変わって、広間の真ん中で踊りが始まった。
「閣下は、踊られますか」
「踊れない」
「私もです。いつも、瓶の前にいましたので」
閣下は、少しだけ私のほうを見た。
「なら、ここに立っていればいい」
私たちは、踊りの輪を、壁際から並んで眺めていた。ふた月前、閣下が一人で立っていたのと、同じような壁際だった。
◇
夜が更けて、私は一人で広間の奥の控えの間へ下がった。手袋の縫い目が、指の蝋の跡に当たって痛かったのだ。
控えの間の鏡の前に、先客がいた。
淡い金色の巻き毛。気の強そうな目。
イゾルデ嬢だった。
イゾルデ嬢は、鏡越しに私を見て、扇を閉じた。それから、控えの間の扉が閉まっているのを確かめて、振り返った。
「メーレン嬢。少しだけ、よろしくて」
「はい」
「わたくし、ザイフェルト家とのお話は、父に保留にしていただいております」
イゾルデ嬢は、前置きをせずに言った。
「それで、昨日の夕方、エーリク様のお屋敷をお訪ねしたの。保留のことを、自分の口でお伝えしようと思って。玄関の広間でお待ちしている間に、奥の居間から、侯爵夫人が家令にお話しになるお声が聞こえましたの」
イゾルデ嬢の声が、低くなった。
「近いうちに、王都の兵が亡くなった件で、査問が開かれますわ。侯爵夫人は、その場で、兵が倒れたのは辺境の瓶詰めを食べたせいだと申し立てるおつもりです。書記局のドルン様に、あなたの瓶に似せたものを作らせると。琥珀色の蝋に、蜂の印で」
私は、イゾルデ嬢の顔を見つめた。
「告発状には、エーリク様に署名させる、と」
「……なぜ、それを私に」
「卑怯は、嫌いですの」
イゾルデ嬢は、きっぱりと言った。
「ふた月前の夜会で、わたくしは、あの方の隣に立っておりました。あなたが誓約書に封をなさるのを、すぐそばで見ておりました。あの封を笑えなかったことだけは、自分を褒めておりますの」
イゾルデ嬢は、扇を開き直して、扉に手をかけた。
「それから、そのドレス。とても、よくお似合いですわ。わたくしの灯火の下で見ても」
扉が閉まった。
◇
広間に戻ると、閣下が、控えの間の入り口のすぐ外に立っていた。
ずっと、そこにいたのだと思う。
私は、閣下の隣に戻って、聞いたことをそのまま話した。査問のこと。辺境の瓶のせいにする申し立てのこと。ドルン様の作る、似せた瓶のこと。エーリク様の署名のこと。
閣下は、黙って聞いていた。最後まで聞いてから、一つだけ言った。
「証拠は、どこにある」
私は、砦の瓶蔵を思い出していた。棚の一番上の、小さな木箱。開けるな、と紙を貼った箱。
岩の下で、捨てる瓶の中から、一つだけ残した瓶。栓がいちばん大きく持ち上がって、赤い封蝋が割れかけていた、王都の瓶。
「封の中です」
閣下が、私を見た。
「砦の瓶蔵の、棚の一番上に。岩の下で、毒の出た王都の瓶を一つ、日付と場所の札と一緒に、固封しておきました。私が解くまで、誰も開けていません。誰も、中身を替えられません」
閣下は、広間の入り口に控えていた護衛の兵を、目で呼んだ。
「今夜のうちに、早馬を出す。砦のオットマーに、瓶蔵の棚の一番上の箱を、ヨストに持たせて王都へ寄越せと伝えろ」
兵が、駆けていった。
楽団の曲が、また変わった。閣下は、何もなかったような顔で、私の隣に立ち直した。
「間に合いますか」
「間に合わせる」




