白い制服を脱ぐ日(エーリクside)
騎士団の大広間に入ると、話し声が止んだ。
第三中隊の騎士たちが、壁際に並んでいた。昇進祝いの夜会では、私の盃に次々と酒を注いだ連中だ。今は、誰も私を見なかった。見ないように、床か、天井か、窓の外を見ていた。
私は、それを一人ずつ数えた。森の中で、兵たちの顔から不安が消えていくのを数えたように。今度は、目を逸らした数だった。全員だった。
ハースだけが、まっすぐ前を見ていた。
「ザイフェルト中隊長。前へ」
王都騎士団の団長が、奥の机の向こうから言った。机の上には、紙の束が載っていた。ハースの書いた報告書だ。その上に、王宮の紋の入った書状が一枚。
「昨日、王の御前で、辺境の封が試された。ハース副官が報告を述べ、メーレン嬢の警告書が示された」
団長は、紙の束を指で叩いた。
「警告を、読まずに退けたそうだな」
「……辺境の、台所の女の書いたものでした。騎士団の糧食に口を出す筋合いは――」
「その台所の女の瓶で、お前の中隊は帰ってきた」
団長の声は、大きくなかった。大きくないのが、かえって広間の隅まで届いた。
「書記局の封緘持ちを雇い、王都の料理長に肉と豆を煮させ、酢も入れずに瓶に詰めた。辺境で、それを止めようとした者がいた。お前は退けた。四日目に瓶が黒くなり、毒の出た瓶で兵が倒れ、一人が死んだ」
ルッツ。十九の兵卒だった。名前を、私は砦の墓地で初めて覚えた。
「第三中隊長の任を解く。中隊は、当面ハース副官に預ける」
団長が、片手を差し出した。
何を求められているのかは、分かっていた。私は、白い制服の肩から、金の飾り緒を外した。夜会の夜、母上が自分の手で付けてくださった飾り緒だった。指が、うまく動かなかった。留め金が一度、床に落ちた。
拾ったのは、私自身だった。誰も、拾おうとしなかった。
飾り緒を団長の机に置いて、私は振り返った。壁際の騎士たちは、相変わらず、誰も私を見なかった。
◇
屋敷へ戻る馬車の中で、私は窓の外を見ていた。
王都の石畳。冬の初めの、薄い日差し。森の中の日差しとは、色が違う。
引き返しの岩の下の朝を、思い出していた。
座り込んだ私の前に、あの女は、ほかの兵と同じ順番で来た。肩の傷を辺境の衛生兵に洗わせ、包帯に封をして、それから瓶を一つ、私の前に置いた。
琥珀色の封蝋。蜂の紋。
婚約していたころ、誕生日に、あの女はあの紋の瓶を私に寄越した。桜桃の砂糖煮だった。私は封も割らずに、従者にくれてやった。
岩の下で、私はその封を、自分の指で割った。ぱきり、と、小さな音がした。酢の匂いがした。肉と根菜が、詰めた日のままの色をしていた。
私は、それを全部食べた。
すっぱかった。森に入ってから口にしたものの中で、一番、まともな味がした。
あの女は、私が食べるのを見もしなかった。もう次の兵の前に、しゃがみこんでいた。
あのとき、私は何を言えばよかったのか。今も、分からない。
◇
屋敷の居間で、母上が待っていた。
扇が、膝の上で、何度も開いたり閉じたりしていた。今朝、書記局で何があったかは、家令から聞いていた。メーレン局長が、百年前の勅令を持ち出したのだと。
「解かれたのね。中隊長を」
「はい、母上」
「あの女のせいよ」
母上は、扇を閉じた。
「メーレンの娘が、王の御前で封を見せびらかして、王の心を辺境へ持っていった。ハースなどという叩き上げが、主の失敗を書き立てた。あなたは、田舎の女と、裏切り者の副官に、足をすくわれたの」
「母上。兵が倒れたのは、王都で詰めた瓶で――」
「本当に?」
母上は、身を乗り出した。
「岩の下で、兵たちは何を食べたの。辺境の瓶でしょう。あの女が配った瓶よ。兵が死んだのは、その後。砦に着いた次の朝だそうね」
私は、口を開けたまま、母上の顔を見ていた。
順番は、母上の言うとおりだった。ルッツも岩の下で、仲間に辺境の瓶の汁を匙で口へ運んでもらっていた。そして三日後に死んだ。
けれど、ルッツは、辺境の救援が来る前から、もう言葉が出なかった。私は、それを見ていた。
「書記局のドルンには、昔、貸しがあるの」
母上は、静かに言った。
「辺境の瓶の一つくらい、作らせることはできるわ。琥珀色の蝋に、蜂の印。王都の兵が倒れたのは、辺境の瓶のせい。そうなれば、あなたは兵を死なせた中隊長ではなく、辺境の瓶に兵を殺された中隊長になる」
「……母上」
「イゾルデ嬢のお父上はね、婚約のお話を保留にしたいとおっしゃったの。今朝のことよ」
母上の声が、少しだけ震えた。
「このままでは、何もかも失うわ。あなたも、この家も」
◇
その日の夕方、イゾルデ嬢が屋敷を訪ねてきた。
居間には通らず、玄関の広間に立ったまま、私を見た。【灯火】の加護の令嬢らしく、燭台の明かりが、彼女の周りだけ少し明るく見えた。
「父から、保留のお話は聞きました。わたくしからも、一つだけ申し上げておきたくて」
「何だ」
「わたくし、あの夜会で、メーレン嬢の封を見ましたの。騎士の短剣が通らなかった封を」
イゾルデ嬢は、まっすぐに言った。
「あの方を笑った夜会の真ん中で、わたくしは、あなたの隣に立っておりました。それを、今は少し恥ずかしく思っております。ですから、これ以上、恥ずかしいことはなさらないで」
イゾルデ嬢は、一礼して帰っていった。
何を指して言ったのか、私には分かった。分かったが、追いかけなかった。
◇
夜、母上が私の部屋に来た。
手に、一枚の紙を持っていた。宰相府への告発状の下書きだった。下の欄が、空いていた。
「王都の兵が辺境の瓶詰めを食べて倒れ、一人が死んだ。辺境伯とメーレンの娘は、それを隠して王に偽りを申し上げた。そう書いてあるわ。あなたが署名なさい」
母上は、羽根ペンを私の手に握らせた。
「査問の場で、あなたは『辺境の瓶詰めを食べて兵が倒れた』と言いなさい。それだけでいいの」
私は、紙を見下ろした。
ぱきり、と、封の割れる音が、耳の奥で鳴った。
私は、母上に逆らったことがない。一度も。
「……はい、母上」




