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終わっていない婚約

 侯爵夫人の扇の先が、私の胸元を指した。


「侯爵家と伯爵家の婚約は、王の記録に載るもの。ですから、破棄にも王のご承認が要りますの。古くからの慣例ですわ。あの夜の誓約書には、王のご承認がございません」


 夫人は、扇をゆっくりと開いた。


「つまり、あの破棄は成っておりません。あなたは今も、エーリクの婚約者ですのよ」


 回廊の冷たい空気が、すっと動いた。


 私は、夫人の顔を見た。夜会の夜、理由の欄を書き直せと言った顔と、同じ顔だった。ただ、目だけが違った。あの夜は私を見下ろしていた目が、今日は私の腰の封蝋の棒を見ていた。


「エーリク様には、メルツ家のイゾルデ様がいらっしゃいます」


「イゾルデ嬢とのお話は、まだ両家で決まったものではございませんの」


 夫人は、何でもないことのように言った。


「それに、お手紙でお申し入れしたはずですわ。辺境まで、使いに持たせて。お返事がないのは、承諾と受け取っておりましたけれど」


 青い封蝋の手紙。砦の瓶蔵の、机の引き出しの一番奥。


「まだ、開けておりません」


 夫人の扇が、止まった。


「砦の机の引き出しの奥にございます。封も、割っておりません」


「……開けて、いない?」


「はい。終わったものですので」


 夫人の口元が、一瞬だけ引きつった。すぐに、扇がそれを隠した。


「よろしいわ。明朝、書記局で、あの誓約書の正本を開いて、王の宰相府の方の前で読み直していただきます。宰相閣下には、もう申し立てを済ませてありますの」


 夫人は、裾を翻して回廊を去っていった。


 足音が遠ざかってから、閣下が言った。


「狙いは、君の瓶だ」


「はい」


 王が、辺境の瓶に王家の費用を出すと言った、その日のうちに。私の封が王の御前で知られた、その日のうちに。


「婚約者のままなら、君の封も、瓶も、ザイフェルト家のものだと言える」


 閣下の声は、いつもより低かった。


◇


 翌朝、書記局の局長室に、人が集まった。


 侯爵夫人と、その後ろに侯爵家の家令。宰相府から来た、眼鏡の書記官。次席書記官のドルン様。父。閣下と、私。


 開け放した扉の向こうの大部屋では、書記たちが羽根ペンを持ったまま、誰も書いていなかった。窓際の机で、カティアさんが、こちらを見ていた。


 ドルン様が、記録庫から一通の誓約書を持って戻ってきた。三つに畳まれた紙。琥珀色の封。蜂の紋。


 ふた月前の夜、私がザイフェルト家の大広間で押した、固封だった。


「書記局の慣例として、正本の封は、局の者が立ち会って開けることになっております」


 ドルン様は、侯爵夫人のほうへ軽く頭を下げた。昨日、王の御前で真っ白になっていた顔に、色が戻っていた。


「では、開けさせていただく」


 ドルン様は、封蝋の縁に爪をかけた。かからない。小刀を出して、刃先を差し込もうとした。滑った。


 ドルン様は、小刀を机に置いた。昨日、王の御前で見たことを、もう一度確かめただけのような顔だった。


「……開きませんな」


「でしょうね」


 侯爵夫人が、扇の陰で微笑んだ。待っていた、という微笑みだった。


「宰相府の方、ご覧になりまして? 中身を読めない書面を、正本と呼べまして? 開けられない誓約書など、誓約書ではございませんわ」


 ドルン様が、咳払いをした。


「読めない正本は、正本として扱えぬ、という考え方も、ございます」


 宰相府の書記官が、眼鏡の奥の目を細めて、誓約書と夫人を見比べた。


 夫人は、私に向き直った。


「メーレン嬢。あなたがお解きなさい。解けば、中身を皆で読み直せます。破棄が成っていないことも、皆で確かめられますわ」


 局長室の全員が、私を見た。


 私は、夜会の夜と同じことを言った。


「その封は、私が解くまで開きません。解くつもりは、ございません」


「解かないのなら、開けられない書面として、無効ですわ」


 夫人の声が、少し高くなった。勝ちを確かめるような声だった。


 閣下が、一歩前に出た。


 夫人ではなく、父を見ていた。


「メーレン局長。王の承認の慣例は、いつまで生きていた」


 父の肩が、びくりと動いた。


 父は、侯爵夫人を見た。夫人の扇が、ゆっくりと父のほうを向いた。父が何十年も背中を丸めてきた、侯爵家の扇だった。


 父は、目を伏せた。


 それから、顔を上げた。


「……記録庫を、見てまいります」


◇


 父は、思っていたよりずっと早く戻ってきた。


 腕に、古い帳面を一冊抱えていた。革の表紙が擦り切れて、角が丸くなっている。表紙の合わせ目に、色の褪せた赤い封蝋があった。書記局の封だった。


「婚約と、婚約破棄の手続きを定めた勅令の綴りです。私の加護は【数え】でして。記録庫の棚と年号は、全部頭に入っております」


 父は、帳面を机に置いた。手が、少し震えていた。


「この封は、綴りを納めたときに押されたものです。封の脇に、納めた年と、封をした書記の名がございます。局の開封の帳面にも、この綴りを開けた記録は一度も載っておりません。この綴りは、納められてから誰にも開けられず、書き換えられてもいない、ということです」


 父は、宰相府の書記官に、封を見せた。書記官がうなずいた。


 父は、皆の前で、その封を指で割った。


 ぱちり、と赤く光った。


 開けられたことが分かる封。開けたのは、書記局長、今、ここで。


 父は帳面をめくり、一つの頁で手を止めた。


「百年前、先々代の王の御代の勅令です。侯爵家と伯爵家の婚約に王の承認を要する慣例は、これを廃する。以後、婚約と破棄は、両家の当主と当人の署名をもって成る」


 父は、顔を上げた。


「破棄の誓約書には、ザイフェルト侯爵閣下、エーリク殿、私、娘の署名がございます。写しは両家が一通ずつ持っております。破棄は、あの夜に成っております」


 局長室が、静まり返った。


 宰相府の書記官が、眼鏡を押し上げて、帳面の頁を読み、それから侯爵夫人に向き直った。


「侯爵夫人。お申し立ての慣例は、百年前に廃されております。宰相閣下には、そのようにご報告いたします」


 夫人の扇が、ぴたりと閉じた。


 夫人の唇が、何か言いかけて、そのまま閉じた。ドルン様が、目を伏せて、帳面から一歩下がった。


 私は、父を見た。


 父は、帳面を閉じて、表紙の割れた封を指先でなぞっていた。背中が、少しだけ、まっすぐだった。


◇


 侯爵夫人は、家令を連れて局長室を出ていった。


 扉の脇に立っていた私の前を、夫人が通り過ぎる。そのとき、夫人は扇を開いて、後ろからついていくドルン様のほうへ顔を寄せた。


 扇の陰の声は、小さかった。けれど、扉のすぐ脇にいた私には、聞こえてしまった。


「辺境の瓶で、王都の兵が死んだそうね」

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― 新着の感想 ―
↓なろうってどの作品もそんなもんじゃない? AI叩きたくて叩きたくて重箱の隅をつついてるようにしか見えない ダサい
何の役職もないたかが侯爵婦人が、でしゃばるなあ。しかも事前に根回しも裏付けもしないなんて愚かとしか言えない。そんなのが貴族社会で生き残れるとは思えないんだけど。AIさんって貴族を根本的に理解してない気…
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