御前
謁見の間の真ん中に、小さな卓が一つ置かれていた。
卓の上に、同じ形の木箱が二つ。手のひらに載るほどの、蓋つきの文箱だ。どちらにも、同じ文面の書きつけが一枚ずつ入っている。
卓の向こうの玉座に、王がいた。灰色の髭をたくわえた、目の疲れた方だった。その脇に、痩せた宰相閣下。壁際には王都騎士団の団長と、近衛の騎士たち。反対の壁際には、書記局の書記官たちが並び、その端に父がいた。
広間の後ろのほうには、見物に来たらしい貴族たちが詰めていた。扇の陰から、ささやきが聞こえる。
「あれが、封の令嬢か」
「辺境の瓶の。書記局長の娘だそうだ」
私の隣には、閣下が立っていた。苔色の外套のまま、いつもと同じ顔で。
「始めよ」
王が言った。
◇
ドルン様が、一歩前に出た。
「陛下。封緘の封は、開けられたことを示すためのもの。書記局は二百年、この封で王国の公文書を守ってまいりました。辺境で何があったか存じませんが、封緘の封は、誰が押しても封緘の封でございます」
自信のある声だった。広間の貴族たちが、うなずき合った。
ドルン様は、左の木箱の蓋を閉め、合わせ目に赤い蝋を落とした。書記局の印章を押す。慣れた、迷いのない手つきだった。
私は、右の木箱の蓋を閉めた。琥珀色の蝋を落とし、祖母の蜂を押して、三つ数える。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
指先から、いつものように何かが流れていった。固封。
「開けよ」
近衛の騎士が、まず左の箱を取った。短剣の先を合わせ目に差し込み、こじる。
赤い封蝋が、ぱちりと割れた。割れ目が一瞬、赤く光った。蓋が開いた。
「このように、開けられたことが、誰の目にも分かります」
ドルン様が言った。広間から、小さな拍手が起きた。
近衛の騎士は、次に右の箱を取った。
同じように、短剣の先を合わせ目に当てる。
刃が、滑った。
騎士は眉を寄せて、刃の角度を変えた。もう一度。滑る。今度は蓋と箱の間の細い隙間に、刃を立てて押し込もうとした。刃先が、木の表面で止まった。木に、筋ひとつ付いていなかった。
騎士は短剣を置き、腰の剣を抜いた。王の許しを求めるように玉座を見て、王がうなずくと、柄頭を箱の蓋に振り下ろした。
ごつ、と、石を叩いたような音がした。
文箱は、卓の上で少しずれただけだった。
広間が、静まり返った。拍手をした貴族たちの手が、宙で止まっていた。
「……火を」
宰相閣下が言った。侍従が燭台を運んできた。騎士が蝋燭の炎を、琥珀色の封に近づける。
封蝋は、溶けなかった。炎の先が封に触れても、蜂の紋は形を崩さなかった。騎士は炎を、箱の木の角に当てた。乾いた木の角が、焦げなかった。煤さえ付かなかった。
ドルン様が、よろめくように卓に寄った。震える指で、封蝋の縁に爪をかけた。
かからなかった。爪のほうが白くなった。夜会の夜の、ザイフェルト家の書記と同じだった。
「そんな……封緘の封で、こんな……」
ドルン様の声が、かすれた。後ろの書記官たちは、誰も口をきかなかった。
王が、玉座から身を乗り出していた。
「メーレン嬢。その箱は、どうすれば開く」
「私が、解けば開きます」
私は卓に寄って、琥珀色の封に指先で触れた。流れていたものを、そっと引き戻すように。
封蝋が、音もなく柔らかくなった。光りもしなかった。蓋を開けると、中の書きつけは、入れたときのまま畳まれていた。
広間のどこかで、誰かが長い息を吐いた。
壁際の父を見た。父は、口を固く結んで、卓の上の箱を見ていた。誇らしいのか、気まずいのか、自分でも分からないような顔だった。
◇
「森から持ち帰った瓶を」
王の言葉で、ティムが謁見の間の扉の外から木箱を運び込んだ。顔が真っ青だった。ここへ来るまで、一度も人に預けなかった箱だ。
藁をほどいて、開かない瓶を卓に置いた。琥珀色の封。葉の輪に囲まれた蜂。
「森の四日の深さにある、二百年前の哨所跡の地下に、この瓶が数百並んでおりました。中身は酢漬けと砂糖煮で、二百年たっても色が変わっておりません」
私は言った。
「この封は、私にも開けられません。他人の固封は、私には解けないのです。槌で叩いても割れませんでした。私より強い封だと思います」
広間が、もう一度ざわついた。
宰相閣下が、侍従から古い帳面を受け取って、頁をめくった。
「陛下。王都の書庫の写しに、二百年前の北の森の哨所の記録が残っております。第一から第四まで、一日ごとの行程に。大崩れの年に捨てられ、辺境の記録は火事で焼けた、と」
宰相閣下は、帳面から目を上げて、卓の上の瓶を見た。
「哨所の糧食を、誰がどう運んでいたかは、書いてございません。ただ、辺境伯家の御用を務める家が、それを受け持っていた、とだけ」
「二百年前にも、そなたのような者がいたということか」
王が、瓶の封を見つめたまま言った。
「分かりません。ただ、この封をした人は、何年も開かない瓶にするつもりで、封をしたのだと思います」
帳面の裏表紙の紙のことは、言わなかった。誰にも見せるな、と祖母が書いた紙のことは。
◇
「ハース副官」
王が呼ぶと、壁際からハースさんが進み出た。片膝をつき、制服の胸の内から、一枚の紙を取り出した。折り目が擦り切れた、私の警告の一通目だった。
「報告に書いたとおりでございます。メーレン嬢は、王都隊の瓶を見て、この六つを書いて渡されました。酢と塩の足りない肉と豆の瓶には、毒が出る。栓の浮いた瓶は、開けずに捨てよ。中隊長は、これを読まずに退けました」
ハースさんの声は、硬く、まっすぐだった。
「この紙の五番目のとおりに兵を寝かせたので、助かった者がおります。救援の朝、辺境の瓶で、兵は立てるようになりました」
王都騎士団の団長が、壁際で顔をしかめた。自分の騎士団の中隊長の話だった。
王は、長い間、黙っていた。
それから、閣下を見た。
「ノルトハイム辺境伯。そなたは十年、毎年、糧食の改良の嘆願に来ていたな」
「はい」
「毎年、断ったのは、余の宰相と書記局だった」
宰相閣下が、静かに頭を下げた。
「辺境騎士団の糧食に、王家の費用を出す。瓶と、蝋と、封をする者の給金を、王家が持つ。メーレン嬢の瓶を、森の奥へ運べるだけ運べ」
閣下が、片膝をついた。
「……ありがたく」
閣下の声が、一度だけ、かすれた。
私は、閣下の背中を見ていた。十年、毎年、断られてきた背中だった。苔色の外套の肩が、ほんの少しだけ、下がって、それから元に戻った。
ドルン様が、壁際で、真っ白な顔をしていた。
◇
謁見の間を出ると、回廊に冬の光が差し込んでいた。
閣下が、私の横を歩きながら、低い声で言った。
「助かった」
「私の瓶です。閣下の嘆願です」
「両方だ」
閣下が、それだけ言った。
回廊の角を曲がったところで、閣下の足が止まった。
柱の陰に、一人の婦人が立っていた。深い青のドレスに、羽根の扇。扇を閉じる、乾いた音がした。
ザイフェルト侯爵夫人だった。
「メーレン嬢。王の御前での手並み、拝見しましたわ」
夫人は、扇の先を唇に当てて、微笑んだ。
「でも、お忘れではなくて? あなたの婚約は、まだ終わっておりませんのよ」




