開けられたことが分かる封
書記局の大部屋は、朱の匂いがした。
長い机が何列も並び、書記たちが背を丸めて羽根ペンを走らせている。机の端ごとに小さな火鉢があって、赤い封蝋の棒が立ててある。蜜蝋に松脂を混ぜて、朱で赤く染めた蝋。溶けると、甘さの奥に、鉄のような匂いが混じる。
私の封蝋は、蜜蝋と松脂だけだ。溶かすと、蜂蜜の匂いしかしない。同じ封蝋でも、こんなに匂いが違うのだと、私は大部屋の入り口で初めて知った。
「リゼル」
奥の局長室の前に、父が立っていた。
ふた月前、夜会の大広間で、初めて見るものを見る顔をしていた父だ。今日は、書記局長の濃い紺の上着を着て、いつもの役人の顔をしていた。
「お父様。ただいま戻りました」
「……よく、戻った」
父は、私の後ろの閣下に、深く頭を下げた。
「ノルトハイム辺境伯閣下。娘が、お世話になっております」
「世話になっているのは、辺境騎士団のほうだ」
閣下は短く言った。父は顔を上げて、少しだけ目を泳がせた。
◇
局長室には、先客がいた。
年かさの書記官が三人。一番前に立っているのは、白い髭を短く刈った、次席書記官のドルン様だった。子供のころ、父の机の勅書に触ろうとした私を叱ったのが、この人だった。
「これは、メーレン嬢。辺境から、お帰りで」
ドルン様は、私の砂色の旅装と、蝋の熱で赤くなった指先を、上から下まで眺めた。
「辺境で、瓶に封をしておられるとか。局長の娘御が、書記の家の加護で、台所の瓶に。……恥の上塗り、と申しては失礼か」
後ろの二人が、小さく笑った。
「明日、王の御前で行われる試しのことは、宰相閣下から内々に伺っております」
ドルン様は父のほうを見た。
「書記局の封と、メーレン嬢の封を、王の御前で並べて試されるのだとか。局の面目に関わります。局長には、よくよくお考えいただきたい」
父は、黙って机の上の書類を揃えた。揃える必要のない書類だった。
「失礼ですが」
私は口を開いた。
「書記局の封は、どのくらい固いのですか。私は、書記局の封が割れるところを、辺境で初めて見たのです」
ドルン様は、子供に教えるような顔をした。
「封緘の封は、開けられたことが分かれば足りるのです。開けば赤く割れて光る。誰が開けたか、いつ開けたか、局の帳面と照らせば分かる。それで、二百年、王国の公文書は守られてきた」
「開かない封は」
「聞いたことがありませんな」
ドルン様は、髭を指でしごいた。
「王都騎士団の副官の報告に、そういう封の警告書が添えてあったとは聞いております。近衛の短剣が滑ったとか。刃の当て方が悪かったのでしょう。辺境の田舎の小細工に、王都の書記局が並べられるとは」
「小細工で」
閣下が、口を開いた。部屋が、静かになった。
「王都の兵が、九十九人、自分の足で帰った」
ドルン様の口が、半分開いたまま止まった。
閣下は、それ以上は何も言わなかった。窓の外を見ていた。
九十九人。百人の中隊のうち、ルッツだけが帰らなかった。私は、砦の裏の墓地の、新しい土の盛り上がりを思い出した。
◇
「書記局の皆様に、お願いがあって参りました」
私は、ドルン様と、後ろの二人と、それから開け放した扉の向こうの大部屋に向かって言った。
「辺境の森では、封をした瓶の中身だけが腐りません。封のできる者が、私一人では足りないのです。重いものを閉じる封を毎日押していけば、封は固くなります。辺境の瓶蔵で、封をしてくださる方は、いらっしゃいませんか」
大部屋の羽根ペンの音が、いくつか止まった。
それから、笑い声がした。後ろの二人の書記官だった。
「書記局の封緘持ちが、瓶に?」
「森の縁の砦で、台所仕事を? ご冗談を」
ドルン様は、笑わなかった。ただ、ひどく疲れたような顔で首を振った。
「メーレン嬢。書記局の封緘持ちは、王の勅書に封をする者です。瓶ではない」
私は、それ以上は言わなかった。言っても、同じ答えが返ってくると分かった。
頭を下げて、局長室を出た。
◇
大部屋の一番奥、窓際の机に、若い女の人が座っていた。
栗色の髪を短く切りそろえ、紺の上着の袖に墨の染みがある。私より少し年下だろうか。ほかの書記たちが私を見ないようにしている中で、その人だけが、羽根ペンを置いて、まっすぐ私を見ていた。
見ていたのは、私の顔ではなかった。私の腰の袋から覗いている、琥珀色の封蝋の棒と、首から下げた真鍮の印章だった。
通り過ぎようとしたとき、その人が立ち上がった。
「その蝋は、朱を入れていないのですか」
硬い、言い切るような声だった。
「蜜蝋と松脂だけです。祖母のやり方で」
「匂いが、違います。さっき、扉のところから匂いました」
その人は、灰色の目で封蝋の棒をじっと見つめた。
「書記のカティアと申します。加護は、【封緘】です」
「リゼル・メーレンです」
「存じております」
カティアさんは、それだけ言って、また棒を見た。何か聞きたそうに口を開きかけて、大部屋の奥のドルン様の視線に気づくと、黙って腰を下ろした。
羽根ペンを取る指先が、少しだけ赤かった。私と同じ、蝋の熱の色だった。
◇
局の玄関で、父が追いついてきた。
「リゼル」
父は、閣下が少し離れたのを確かめてから、低い声で言った。
「お前の封のことを、私は知らなかった。屋敷の地下の棚の扉に、あんな封があったとは」
「誰も開けようとしませんでしたから」
「……そうだな」
父は、自分の手を見下ろした。
「明日は、局の封と並べられる。局の者たちには、立場がある。お前の封が局の封より固いと、王の御前で示されれば――」
父は、そこで言葉を切った。続きを言えば、何を頼むことになるのか、父にも分かっていたのだと思う。
「お父様。封は、封のとおりにしかなりません。私が手加減をしても、固封は固封です」
「……分かっている」
父は、それ以上何も言わなかった。
そのとき、玄関の石段を、王宮の紋の外套を着た侍従が上がってきた。侍従は父と私を見比べ、それから閣下に一礼した。
「ノルトハイム辺境伯閣下、メーレン嬢。王のお言葉をお伝えします」
侍従は、背筋を伸ばした。
「明朝、御前にて。封蝋と印章と、森から持ち帰った開かない瓶を持参のこと。刃は、こちらで用意する、と」




