瓶蔵を預ける朝
開かない瓶を、藁で幾重にも包んで、小さな木箱に収めた。
琥珀色の封に、葉の輪に囲まれた蜂。二百年前の誰かの封は、藁越しに触れても、ほかの瓶よりわずかに重く感じた。王にお見せするために、王都まで持っていく。
木箱の蓋を閉めたところで、瓶蔵の扉が開いた。
「お前さん。封の砦から、運び手が戻った」
副団長だった。後ろに、背負い籠を下ろしたばかりの兵が三人、息を切らして立っていた。外套から、森の湿った土の匂いがした。
「瓶は全部、潜り戸から運び込めました。向こうの連中は、みんな元気です。毎晩、酢の煮込みを温めて食ってます」
先頭の兵が言った。
「門は、どうでしたか」
「封をしたままです。夜に一度、黒顎が来て爪を立てたそうですが、門扉には傷ひとつ付いてません。合わせ目の蜂も、あの朝のまんまです」
兵たちが、顔を見合わせて笑った。私は、そっと息を吐いた。森の四日の深さで、私の封は今も閉じている。
「雪が来るまで、あと何度運べますか」
「二度か、三度だな」
副団長が答えた。それから、腕を組んで私を見下ろした。
「だから、お前さんに頼みがある。留守の間の瓶蔵を、俺に預けろ」
◇
出発までの二日で、私は棚が埋まるまで封をした。
ウルスラさんが煮て、ヤーナが洗い、兵が栓を打つ。私は琥珀色の蝋を落として、蜂を押して、三つ数える。最後の瓶に封をしたとき、指先は震えていたけれど、棚には空いたところがなかった。
瓶蔵の入り口の壁の、祖母の決まりの紙の下に、私はもう一枚、紙を貼った。
――封をしていない瓶を、森に入れないこと。
「これだけ守ってくだされば、あとは副団長にお任せします」
「お前さんの決まりを破る奴は、俺が森の縁に埋める」
副団長は、壁の紙を一行ずつ指でなぞった。読み終えると、棚の一番上に目をやった。
小さな木箱がある。毒の出た王都の瓶が、日付と場所の札と一緒に、私の固封の中に入っている。前に、開けるな、と紙を貼った箱だ。
「あれは、持っていかんのか」
「記録ですから。ここに置いておけば、誰も触れません」
「確かに、触る度胸のある奴はおらんな」
副団長は鼻を鳴らした。
私は、机の引き出しを一度だけ開けて、閉めた。一番奥の青い封蝋の手紙は、そのままにした。ザイフェルト侯爵家の手紙を、王都まで持って帰る理由はなかった。
◇
出発の朝、砦の門の前で、ウルスラさんが布の包みを私の腕に押しつけた。
「道中の分だよ。乾かしたパンと、干した林檎。王都の宿の飯は、塩が足りないからね」
「ありがとうございます、ウルスラさん」
「礼はいいから、ちゃんと帰っておいで。嬢ちゃんがいないと、若様が飯を残すんだ」
「残したことはない」
馬上から、閣下が言った。ウルスラさんは聞こえないふりをした。
ヨストさんは、門の陰で、私の右手の包帯を一度だけ見た。火傷は、もう皮が張り始めていた。
「王都の人間は、森の傷を知りません。嬢ちゃんの封を見て、何を言うか分からん」
「はい」
「何を言われても、嬢ちゃんの封は、わしの見た封です」
ヨストさんは、それだけ言って、腰の曲がった背中を向けた。
◇
王都までは、馬で五日の道だった。
閣下と、護衛の兵が何人か。ヤーナと、それに、なぜかティムがいた。
「開かない瓶の箱は、俺が背負います! 割ったら団長に殺されるんで、命がけで背負います!」
ティムは本当に、道中一度も、箱を人に預けなかった。宿に着いても、寝台の脇に置いて、その上に片手を載せて寝た。
最初の夜、宿で夕食の皿が運ばれてきた。
焼いた鶏と、茹でた芋と、酢漬けの赤蕪。閣下は自分の皿を、黙って私のほうへ押した。
「先に選べ」
「閣下のお皿です」
「君は昨日まで、一日じゅう封をしていた。指が震えていた。旨いほうを先に取れ」
私は、迷って、赤蕪を一切れだけもらった。閣下は、それを見て、鶏の一番脂の乗ったところを、私の皿に移した。
次の夜も、その次の夜も、同じだった。
そのうちに、もう一つ気づいたことがあった。私の部屋の扉の前に、毎晩、護衛の兵が一人、椅子を置いて座っている。交代で、朝まで。
「閣下、宿の中ですから、見張りは」
「森の外にも、刃物を持った人間はいる」
閣下は短く言って、自分の椀のスープを飲んだ。
ティムが、芋を口に入れたまま、閣下と私を見比べた。
「団長。それ、町の貸本屋の姉さんに読んでもらった本に出てきたんですけど、溺愛って――」
「ティム」
「はい」
「明日の朝、馬の世話はお前一人でやれ」
「はい……」
ヤーナが、顔をそむけて肩を震わせていた。笑っていた。
私は、何と言っていいか分からなくて、赤蕪をもう一切れ口に入れた。酢がよく効いていた。
◇
王都が近づくにつれて、宿の客の話し声が変わってきた。
王都まであと一日という宿の食堂では、隣の卓の商人たちが、麦酒の杯を片手に話していた。
「聞いたか。王都騎士団の中隊が、北の森で崩れたって話」
「ああ。腐った瓶詰めで兵が倒れて、辺境の連中に担がれて帰ってきたんだろう」
「それがな、助けたのは辺境の騎士じゃなくて、令嬢の瓶だって言うんだ。封をした瓶詰めだけは、森の中でも腐らないんだと」
「令嬢? 辺境に令嬢なんかいるのか」
「王都の令嬢だよ。婚約を破棄されて、北へ行ったとかいう」
「封の令嬢か」
商人の一人が笑った。笑い方は、夜会の客たちとは違った。面白い話を聞いた、という笑い方だった。
ヤーナが、私の袖を引いた。目が、きらきらしていた。私は首を振って、黙ってスープを飲んだ。顔が熱かった。
向かいの閣下は、何も言わなかった。ただ、商人たちの卓に、ちらりと目をやって、それからパンをちぎった。口の端が、少しだけ上がっていた。
◇
次の日の昼過ぎ、王都の城壁が見えた。
灰色の高い壁と、尖塔の並ぶ空。ふた月前、私はこの門を、四十の瓶と一緒に出ていった。婚約を破棄された令嬢として。
閣下が、馬を私の横に寄せた。
「書記局へは、行くのか」
「父には、挨拶をしなければなりません」
少し迷ってから、私は続けた。
「それから、書記局の封緘持ちの方たちに、会ってみたいのです。封の砦に人を置くたびに、封のできる者が私一人では足りません。重いものを閉じる封を毎日押せば、書記局の封も変わるかもしれない、と……」
「王都の書記局は、俺の嘆願を十年断ってきた。君の父の局だ」
「はい」
「それでも、行く価値はある。君の封を、自分の目で見た者が増える」
閣下はそれだけ言って、前を向いた。
城門の前の広場に、馬車が一台止まっていた。黒塗りの扉に、羽根ペンの紋。メーレン家の馬車だった。
御者台の横に、見覚えのある老いた家令が立っていた。家令は私を見つけると、帽子を取って深く頭を下げた。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
家令は、馬車の扉を開けた。
「旦那様が、書記局でお待ちです。辺境伯閣下も、ご一緒にと」




