封の砦
朝のうちに、閣下は第四哨所跡に残る二十人を決めた。
閣下は、名前を呼ぶ前に、兵たちに一つだけ言った。
「ここで傷を負っても、封をする者はいない。森の外まで四日かかる。塀の外へは出ず、門を守るだけだ。それでも残る者だけが、手を挙げろ」
手は、ほとんど全員が挙がった。
閣下はその中から二十人を選んだ。名前を呼ばれなかった兵のほうが、不服そうな顔をしていた。
私は、手を挙げた兵たちの顔を見ながら、考えていた。封をできるのが私一人では、ここに人を置くたびに、同じことを言わせることになる。王都の書記局には、封緘の加護を持つ人が十人以上いる。開けられたことが分かるだけの封しか押してこなかった人たちでも、重いものを閉じる封を毎日押せば――。
考えは、そこで止めた。王都の書記局に、私の話を聞く人がいるとは思えなかった。
「大きな門は、春まで閉じたままでいい」
閣下は、琥珀色の封の前で言った。
「出入りは潜り戸だ。荷も、潜り戸から運び込め。門を開けたくなったら、リゼルを呼べ」
兵たちが、笑った。
「リゼル様を呼ぶまでもねえ。この門は、二百年開けなくていい」
古参の兵が、門扉をこんこんと叩いた。石を叩くような音がした。
いつの間にか、兵たちはこの場所を、第四哨所とは呼ばなくなっていた。
「封の砦」
誰かがそう言い出して、それがそのまま、みんなの呼び名になった。
「そんな大げさな名前……」
私が言うと、ティムが首を振った。
「大げさじゃないです。だって、門に封がしてあるんですから」
言い返せなかった。私は、包帯を巻いた手で、熱くなった頬を押さえた。
◇
帰り道は、四日かかった。
行きよりも荷が軽く、足取りも軽かった。兵たちは歩きながら、群れの夜の話を何度もした。黒顎が門にぶつかって、門が動かなかった話。合わせ目を叩いたら、石の音がした話。話すたびに、黒顎の数が一頭ずつ増えていった。
三日目の夜、焚き火のそばで、閣下が私の右手を見た。包帯の端の、小さな蜂の紋を。
「痛むか」
「少しだけ。鍋の取っ手を、握りすぎました」
「次は、鍋つかみを持っていけ」
「次も、門に封をするんですか」
「しないで済むなら、それがいい」
閣下は、焚き火に枝を一本くべた。火の粉が上がって、暗い森へ消えていった。
「王都の誰かが、君を返せと言ってきても」
閣下は、火を見たまま言った。
「君を王都に返すつもりはない」
私は、閣下の横顔を見た。
焚き火が一度はぜた。閣下は、いつものように、言い直した。
「……瓶のことだ」
私は、今度は笑わなかった。笑わずに、包帯の手を膝の上で握った。焚き火のせいか、頬が熱かった。
四日目の夕方、砦の門をくぐると、副団長が待っていた。
副団長は、閣下の顔を見て、私の手の包帯を見て、兵たちの数を数えて、それから長い息を吐いた。全員いることを、確かめたのだ。
「団長。王都から、また使いが来ております」
副団長の顔は、前のときほど渋くはなかった。けれど、晴れてもいなかった。
◇
客間で待っていたのは、前に来た若い書記官とは別の、年配の侍従だった。王宮の紋の入った外套を着て、背筋を伸ばして立っていた。
差し出された書状の封は、赤かった。書記局の封。閣下が指で割ると、ぱちりと赤く光った。
閣下は、書状を読んで、それから私に回した。
――メーレン伯爵家の令嬢リゼル、ならびにノルトハイム辺境伯は、王都へ参上すべし。辺境の瓶の件、ならびに王都騎士団第三中隊の遠征の件につき、王が直々に聞く。
王が、直々に。
「王都騎士団の副官の報告が、王の手元に届いたそうです」
侍従が言った。
「添えられた警告書の封を、王が御前でご覧になりました。誰にも開けられず、辺境伯の封と並んでいた、と」
侍従は、少し声を落とした。
「近衛の騎士が、王の御前で、あの封に短剣を当てたそうです。刃が、滑ったと。書記局の者たちは、たいそうざわついておりました。局の封緘持ちの誰にも、あのような封はできぬと」
父の顔が浮かんだ。夜会の大広間で、初めて見るものを見る顔をしていた父の。
侍従は、もう一通、書状を差し出した。
「それから、こちらは、メーレン嬢宛てに。王都で預かってまいりました」
白い紙に、青い封蝋。封蝋の紋を見て、私は一瞬だけ、手を止めた。
ザイフェルト侯爵家の紋だった。
私は、その手紙を受け取った。封は、割らなかった。
瓶蔵に戻って、机の引き出しを開けて、手紙をそのまま、一番奥にしまった。引き出しを閉めた。
ヤーナが、瓶蔵の入り口で、それを黙って見ていた。何も言わなかった。今度は、封の外に気持ちを置いてきたとは、言わなかった。
◇
その夜、瓶蔵の机で、祖母の帳面を開いた。
王都隊の瓶の毒の記録の続きに、群れの夜のことを書いておこうと思ったのだ。門に封をしたこと。どれだけの蝋を使ったか。三つ数える間に、何が起きたか。
帳面を机に置いたとき、裏表紙の革が、少し浮いているのに気づいた。
救援のときも、群れの夜も、ずっと腰の袋に入れて持ち歩いていた。森の湿気と、私の手の熱で、革を貼った糊が緩んだのだろう。
直そうとして、浮いた革の端に指をかけた。
革と板の間に、何かが挟まっていた。
古い紙だった。小さく、四つに畳んである。黄ばんで、端が少し欠けていた。祖母が帳面を作ったときに、革の下に隠したのだろうか。
そっと、開いた。
蜂だった。
一匹の蜂を、葉の輪が丸く囲んでいる。墨で、丁寧に描いた紋だった。羽の筋の一本一本まで。
第四哨所跡の地下の、二百年前の瓶の封と、同じ紋だった。
紋の下に、祖母の細い字で、一行だけ書いてあった。
――北の家の紋。誰にも見せるな。
私は、紙を持ったまま、動けなかった。
祖母の印章の蜂。葉の輪のない、蜂一匹。二百年前の瓶の、葉の輪に囲まれた蜂。
祖母は、北の生まれだった。村の名前は、一度も教えてくれなかった。
瓶蔵の扉が、叩かれた。
「起きているか」
閣下だった。明かりが漏れていたのだろう。
私は、扉を開けて、黙って紙を差し出した。
閣下は、紙を受け取り、火鉢の明かりにかざした。それから、机の上の開かない瓶を見た。琥珀色の封の、葉の輪に囲まれた蜂を。
閣下の目が、紙と瓶の間を何度も行き来した。
「祖母の帳面の、裏表紙に挟まっていました」
私の声は、少しかすれていた。
「誰にも見せるな、と書いてあります。……閣下に、見せてしまいました」
「見なかったことにはしない」
閣下は、紙を丁寧に畳み直して、私の手に返した。
「王都へ行くなら、俺も行く。王都の書庫なら、二百年前の紋の記録が残っているかもしれん」
それから、少し間を置いて、つけ足した。
「……召喚状にも、俺の名がある」
言い直さなくても、いいのに。
私は、紙を胸に押し当てたまま、机の上の開かない瓶を見つめた。
蜂と、葉の輪。二百年前に、森の奥まで瓶を運んだ人たち。
祖母は、この封をした人たちを、知っていたのだろうか。
お読みいただきありがとうございます。封をするだけと笑われた瓶で、辺境騎士団は二百年ぶりに森の奥へ届き、リゼルの封は二百年前の誰かの封の隣に並びました。ここで第1章が完結です。第2章も続けて投稿します。ここまで楽しんでいただけたら、ブックマークと、下の☆での評価で応援してもらえると嬉しいです。




